【洞雲寺文書】
解題
この寺は厳島神主で桜尾城主の藤原教親・宗親親子によって長享元年(一四八七)に菩提寺として創建された。この寺の開祖として迎えられたのは大内氏の重臣陶氏の菩提寺である曹洞宗の周防龍文寺の僧金岡用兼(きんこうようけん)である。金岡は呪術的・神秘的な一面をもち、厳島明神の信頼を受けていたといわれ、現在もこの寺の本堂わきにある「金岡水」は、明神の指示によって洗面・茶湯用の良水を得たのだと伝えられる。かれは阿波国の守護大名細川成之の帰依も受け、同国の丈六・桂林両寺をも管轄していた。またひろく勧進によってこのころ頽廃していた本山永平寺の諸伽藍の復興を成し遂げており、かれは永平寺にとっても重要な役割を果たした僧侶であった。
金岡は師の為宗禅師をこの寺の開山と仰ぎ自分は中興二世となった。初期における洞雲寺歴代は次のとおりである。
開山為宗忠心 中興金岡用兼 三世章山貺雯(きょうふん) 四世興雲宗繁
五世天菴宗春 六世大休登懌 七世大応存隆 八世華屋宗闐 九世全室宗用
十世梅菴賢達 十一世天翁玄播
一号から二九号までが、厳島神主・大内氏・陶氏関係、三〇号から四二号までが毛利氏関係の文書となっている。このほかに正法眼蔵や金岡用兼頂相が蔵されており、その袖書・奥書や賛は(巻末の)付録に収録した。
【藤原親実系神主推定在任年代】(『広島県史』古代中世資料編Ⅲ、解題より)
親実 承久三年(1221)→
親光 ←建長七年(1225)十一月→
親宣(定) ←文永十一年(1274)十二月─永仁二年(1294)三月→
親範 ←永仁六年(1298)十二月─乾元二年(1303)→
親顕 ←正和五年(1316)三月─建武三年(1336)正月
親直 建武三年(1336)?─至徳二年(1385)七月→
親詮 ←至徳四年(1387)三月─応永四年(1397)三月→
親弘(親胤・親頼) ←応永四年(1397)七月─応永十八年(1411)十二月→
親景 ←永享三年(1431)八月→
親藤 ←永享五年(1433)─嘉吉三年(1443)四月→
教親 ←文安元年(1444)七月─文明三年(1471)八月→
宗親 ←文明五年(1473)正月─明応二年(1493)三月→
興親 ←永正五年(1508)七月─永正五年(1508)十二月
興藤 大永三年(1523)閏四月─大永四年(1524)十月
兼藤 大永四年(1524)十月─享禄元年(1528)
広就 享禄元年(1528)八月─天文十年(1541)四月
一 厳島社神主宗親寄進状
奉二寄進一洞雲寺領之事
此領地者元者(以下割書)圓満寺並薬師寺分也」田数坪付別紙在レ之、」除二諸公役
並段銭一寄進申所実也、
慈照院殿並常徳院様御位牌立置申候、次二親(以下割書)法名徳叟」法名受慶之」菩
提所相定申候状、不レ可レ準二諸寺家一者也、仍為二末代亀鏡一之状如レ件、
(1493)
明應貳年丑癸三月廿三日 掃部頭宗親(花押)
「書き下し文」
寄進し奉る洞雲寺領の事
此の領地は元は(以下割書)円満寺並びに薬師寺分なり」田数坪付別紙之在り、」諸公役並びに段銭を除き寄進申す所実なり、
慈照院殿並びに常徳院殿様御位牌を立て置き申し候ふ、次いで二親「法名徳叟」法名受慶の」菩提所相定め申候状、諸寺家に準ずべからざる者なり、仍て末代亀鏡の爲の状件のごとし、
「解釈」
寄進し申し上げる洞雲寺の寺領の事。
この領地は、元は円満寺並びに薬師寺分である。田数と所在地は別紙にある。様々な雑税や段銭を除いて寄進し申し上げることは事実である。
当寺は、慈照院殿(足利義政)と常徳院殿様(足利義尚)の御位牌を立て置き申し上げています。それから、当寺を二親(法名徳叟と法名受慶)の菩提所に定め申し上げましたうえは、その他の様々な寺院に準ずるべきものではない。そこで、将来の証拠のため寄進状の内容は以上のとおりである。
「注釈」
「圓満寺」─廿日市町佐方(サガタ)・五日市町佐方(サカタ)地域にあった中世の廃
寺。現在も小字名として残る(『広島県の地名』)。
「坪付」─田地の所在地と面積を条里制の坪にしたがって帳簿上に記載するもの(『古
文書古記録語辞典』)。
「公役」─国家的な色彩の濃い年中行事の費用として徴収された雑税。造内裏役・神宮
役夫工、また酒屋役、土倉役、味噌役も公役と言われた(『古文書古記録語
辞典』)。
「法名徳叟・法名受慶」─差出は「宗親」なので、「徳叟」が父教親の法名で、「受
慶」が母の法名と考えられます。