周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

ありがとう、天神様! 神をいたわる中世人

  応永二十三年(一四一六)五月二十一日条 (『看聞日記』1─32頁)

 

       (庭田)

 廿一日、晴、重有朝臣出京帰参、世事語之、春日社・日吉社有怪異云々、春日宝前

  辺穴俄出来、〈一夜之間出来〉、穴底差入深事及二丈云々、不思儀之間、

  社家注進云々、又日吉小五月神輿出御之時、鳩一羽飛来、神輿轅飛当胸

  死云々、凡於日吉、鳩希有也云々、又鹿一頭死、条々注進申、八幡にも有怪

  異、然而社務当時雖何事不注進云々、又北野天神衆生相替有御悩云々、仍貴賤

  参詣、和歌・連歌等万人令法楽云々、又自去春比、三井寺湖上ヨリ御灯

  如櫛戸、是天下寺家怪異也、先例有如此事之時、三井寺炎上了、諸社・諸寺怪異

  共不思儀也云々、

 

 「書き下し文」

 二十一日、晴る、重有朝臣出京し帰参す。世事之を語る、春日社・日吉社に怪異有り

  と云々、春日宝前辺りに穴俄かに出来す、〈一夜の間に出来す〉、穴の底へ棹を差

  し入るに、深き事二丈に及ぶと云々、不思儀の間、社家注進すと云々、又日吉小五

  月の神輿出御の時、鳩一羽飛来し、神輿の轅に飛び当たり胸を突きて則ち死すと

  云々、凡そ日吉に於いては、鳩希有なりと云々、又鹿一頭死す、条々注進申す、八

  幡にも怪異有り、然るに社務当時何事と雖も注進せずと云々、又北野天神衆生に相

  替はり御悩み有りと云々、仍つて貴賤参詣し、和歌・連歌等万人法楽せしむと

  云々、又去んぬる春ごろより、三井寺に湖上より御灯を進らす、櫛戸のごとし、是

  れ天下・寺家の怪異なり、先例此くのごとき事有るの時、三井寺炎上し了んぬ、諸

  社・諸寺怪異ども不思儀なりと云々、

 

 「解釈」

 二十一日、晴れ。庭田重有朝臣が京都から帰ってきた。京都で聞いた世間話を語ってくれた。春日社や日吉社で、怪異があったそうだ。春日社の社頭あたりに突然、一夜のうちに穴が空いたという。穴の底へ棹を差し込むと、深さは六メートルほどに及んだという。あまりに不思議な事なので、春日社の社家が朝廷へ報告したそうだ。また日吉社の小五月会で神輿が出発する時に、鳩が一羽飛んでき て、神輿の長柄に衝突し胸を強打して即死したそうだ。だいたい日吉社のあたりでは鳩がほとんどいないという。また鹿も一頭死んだそうだ。これらのことも日吉社の社家から報告されたという。石清水八幡宮でも怪異があった。しかし同社の社務は当時、何も報告しなかったそうだ。また北野天神である菅原道真が、大衆になりかわってご病気になっているらしい。それで大勢が北野天満宮にお参りし、皆、和歌や連歌などを奉納しているそうだ。また春頃から三井寺へ琵琶湖から燈明が流れ寄ってくる。まるで櫛戸のようだ。これは、日本国にとっても三井寺にとっても怪異である。先例では、このような事があると、三井寺に火災があるという。諸社・諸寺の怪異は不思議なことだといえよう。

 

*解釈、注釈の一部は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(二)」(『山形県

 米沢女子短期大学紀要』50、2014・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=203&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 「注釈」

「櫛戸」(くしど)─頻繁なことのたとえのようだが、未詳。

 

 

*あ〜、なんだ、いつもの怪異記事か…。もう驚きもしなくなりました。春日社では一夜のうちに社頭に大きな穴が空き、日吉社では鳩の激突死、プラス鹿が死ぬ。石清水の場合、そもそも朝廷に報告しない。

 あれっ、天神様こと、菅原道真公がご病気になっている。しかも、民衆の代わりに病苦を受けているなんて。天神様はそもそも災厄や疫病を撒き散らす怖い神様なので、御霊会などで祭り鎮めるものだと思っていました。

 どうやら、神様も病気になるようです。しかも、庶民の代わりに。これは菩薩行の一つ、代受苦ではないでしょうか。身代わりになってくれるお不動さんやお地蔵さん、観音さんはよく聞きますが、中世では神様も身代わりになってくれたようです。これも神仏習合思想の一つなのかもしれません。

 中世になると、神様もかなり慈悲深くなるようです。そういう意味で、次の論稿はとても示唆に富んでいるので、そのまま引用しておきます。

 

 「この『今昔物語』に登場する院政期の天神地祇の神々や怨霊・魔性・鬼神は、人間が謹慎して供物を捧げ、法会や読経・供養をすれば、鎮魂・慰霊・成仏して善神や福神に変わる存在になっている。古代社会では「神に逆らう者は死す」と信じられていた荒神であったが、中世では、「神は非礼を受けず」といい供養や祈願を怠れば天罰・冥罰を与える存在に変化している。神と人とが双務契約を結ぶことができると信じる世界が広まり始めた。古代に人間を殺すと信じられた荒神は、中世では神前読経や供養によって人間に福を招来する善神にとってかわる。中世の鬼神は仏によって両義性をもたらされた。私はこれを「鬼神の両義性」と呼ぶ。」

(井原今朝男『中世寺院と民衆』臨川書店、2004、51頁)

 

 中世前期で荒神と善神の両義性をもたされた鬼神は、中世後期になると、さらに仏教思想の影響を受け、代受苦を果たす慈悲深い菩薩のような存在にまで変化したのかもしれません。天神様の本地仏は十一面観音(『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院)なので、観音様の菩薩としての特徴が、天神様の性質に影響を及ぼしたと考えられそうです。

 

 それにしてもおもしろいのが、天神様のご病気を知った人々がこぞって参詣し、和歌や連歌を奉納しているところです。さすが、学問の神様。こういう供養の仕方で神様の病気は回復すると、当時の人々は考えていたようです。

 では、なぜ和歌や連歌で神様が供養できるのでしょうか。どうも院政期には、「和歌即陀羅尼」・「和歌即真言」という観念が成立していたそうなのです。つまり、和歌は、仏の真如の「コトバ」である陀羅尼(真言)と同じものだと考えられていました。ちなみに、「和歌即陀羅尼」・「和歌即真言」という語は、史料用語ではなく、史料から読み取った内容をもとにつくられた分析概念です(石黒志保「慈円の言語観と院政期の歌論」『寧楽史苑』55、2020・2、http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/handle/10935/4069)。

 ということは、天神様に和歌・連歌を奉納することは、神前で陀羅尼・真言を唱えること、ざっくり言ってしまえば、神前読経とほぼ同じ行為になると考えられそうです。神仏習合下の神様は、お経や陀羅尼・真言で供養してもらうことを喜びました。それを端的に示す事例が、『発心集』第七にあります。これについては、藤島秀隆氏「『発心集』第七「空也上人脱衣奉松尾大明神事」をめぐる諸問題」(『金沢大学語学・文学研究』5、1974・10、https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2127&item_no=1&page_id=13&block_id=21)に詳しいので、そちらを参照していただき、ここでは要点のみを述べておきます。

 

 空也雲林院に住んでいた七月ごろ、京都大宮大路を南下していると、ただ人とは思えない人が寒さに震えているのに出会った。不審に思って尋ねると、その人は松尾の大明神だと名乗り、妄想や煩悩で苦しんでいるから、法華経を読んでほしい、と言った。そこで、空也は自分が四十数年着ている、法華経を読みしめた小袖を差し上げた。大明神は喜んでそれを身につけ、大変暖かくなったから、今後は空也仏道成就するその日までお守りしましょう、と言った。

 

 これは、西の猛霊と呼ばれ、東の賀茂社と並び称された松尾大社の説話ですが、妄想・煩悩を原因とした寒さに苦しむ神が、法華経の功徳によって救われているのです。天神様のエピソードも、これと同じ論理で理解できそうです。天神様は在世中、漢詩や和歌に秀でた人だったから、和歌や連歌の奉納を喜ぶという考え方もあるのでしょうが、もう一つの背景として「和歌即陀羅尼」という観念も影響していたと考えられます。

 和歌というのは、文学の一ジャンルとしてしか考えていませんでしたが、当時の社会を理解するうえで、とても大事なキーワードだったようです。こちらも少々長いですが、そのまま引用しておきます。

 

 「国を護るのは人の力によるのではない。鬼神をまず勧請して、供物を献上し、鬼神の前で読経する。鬼神が聞き楽しみ喜んで、人と共飲共食をする。鬼神や仏と人が法楽する。それにより、神の威力が倍増して、世の中が五穀豊穣になり、国土が鎮まり、安邦治民が実現する、という論理になっている。これを攘災招福の世界観と呼ぶ。

 人が神仏と法楽すると、鬼神力で護国が実現するとする中世的護国思想が展開されている。したがって漢詩・管弦・和歌は法楽のため、神と人とが楽しみ喜び護国を実現するための手段という考え方が中世知の体系であったいえる。いいかえれば、中世国家儀礼において漢詩・管弦・和歌は鬼神や仏が人間の世界と一緒に法楽するための手段であった。鬼神を勧請して神前読経を行い、後宴で漢詩・管弦・和歌によって人と鬼神とが法楽することによって鎮護国家・五穀豊穣が実現されるという宗教的宇宙観・世界観をもっていたといえよう。荒ぶる鬼神を経典と漢詩・管弦・和歌によって法楽して、福神に転じて、鬼神の力で鎮護国家・五穀豊穣を実現するという中世的護国思想の論理・法楽主義とも呼ぶべき世界観が中世の時代意識・社会意識になっていた。その意味で、中世社会は通説でいわれるような神仏習合の世界ではなく、あくまで仏教は鬼神を楽しませる手段であった神事優先の社会・護国思想の強い社会であったといわなくてはならない。中世の国家観は、近代人のそれとは全く異質であり、鬼神や仏神と人とが法楽して護持されるという呪術的護国思想と一体のものであった。」

井原今朝男「中世儀礼における漢詩・管弦・和歌と社会教養」『中世の国家と天皇儀礼校倉書房、2012、初出2007、311頁)

 

 天神様は民衆の病苦を引き受け、民衆はその神を病から救うために和歌・連歌を奉納する。病から回復した神様は、再び霊験を発揮する。こうした神と人との協力関係が、中世後期にはできあがっていたと評価できるかもしれません。ただ、現代人には神様を救おうとする意識はないので、いつの間にかこうした意識は消え去ってしまったようです。中世人は現代人に比べて優しいであるとか、慈悲深いなどと言うつもりはありません。神を救わなければ、人間を守ってもらえないから、という双務契約だったのでしょうが、一方的にご利益だけを期待する現代人の感覚とは、ずいぶん違うようです。

 ところで、中世人は天神様が病気になったことを、どのようにして知ったのでしょうか。何らかの怪異が北野天満宮で起きたのでしょうか。それとも、誰かの夢に現れて、お告げでもしたのでしょうか。また、誰が天神様の病気を人々に知らせたのでしょうか。このような疑問点が明らかになると、さらにおもしろいのですが…。

 

【追記】 2018.5.6

 先ほど、上記の疑問点について私信をいただきました。天神様の病気は、天満宮の梅に変化が起きたことでわかったのではないか、というご指摘でした。さもありなん。梅が枯れる、あるいは梅の花が咲かない、花の付きが悪いなどの怪異?によって、判断した可能性があります。梅は天神様の象徴なので、その変化によって天神様の異変に気づいたということは、十分にあり得ると思います。

 古記録で見つけることは難しいかもしれませんが、説話などで梅の異変エピソードを見つけることができたなら、追加で紹介していこうと思います。

 先月、英語のスパムコメントが来るようになって、コメント欄を消しましたが、そろそろ復活させようと思うので、また何かお気づきのことがあればご教示ください。ご指摘ありがとうございました。