三 大内氏奉行人奉書寫
『横紙感状』(安南郡世能)
於二藝州鳥子城詰口一、郎従一人矢疵左頬、僕従一人石疵頭、一人被二矢疵二ヶ所
(興房)
〈左腕右足〉一之由、陶尾張守注進状到来、令三披二露之一、尤神妙之旨所レ被二
仰出一也、仍執達如レ件、
(1527) (杉)
大永七年四月六日 兵庫助
『興重』
(宣家)
石井九郎三良殿
「書き下し文」
芸州鳥子城の詰口に於いて、郎従一人矢疵左頬、僕従一人石疵頭、一人矢疵を二ヶ所
〈左腕・右足〉被るの由、陶尾張守の注進状到来し、之を披露せしむ、尤も神妙の旨
仰せ出ださるる所なり、仍て執達件のごとし、
「解釈」
安芸国安南郡鳥子城の詰口で、郎従一人が左頬に矢疵を受け、僕従一人が石による傷を頭に受け、もう一人は矢疵を左腕と右足の二ヶ所に受けたことを記載した、陶尾張守興房の注進状が到来し、これを大内義興様に披露させました。いかにも感心なことだとおっしゃったのである。よって、以上の内容を下達する。
「注釈」
「鳥子城」─現安芸区瀬野川町中野。蓮華寺山(三七四メートル)から南西に延びる稜
線の先端を利用した山城で、阿曾沼氏の拠城。中世には鳥子(とこ)城、
鳥子要害と書いた。「芸藩通志」は阿曾沼氏はもと近江鳥籠山(現滋賀県
彦根市)にいたとし、「此山を鳥籠と呼びしは、旧里を慕ひ其名を襲用た
るなるべし」とするが、阿曾沼氏は南北朝以後、下野阿曾沼郷(現栃木県
佐野市)から当地に移ったこと以外は不詳。当城の位置は世能荒山庄全体
から見れば南に偏しているが、甲越峠を通る古山陽道と海田(現安芸郡海
田町)・船越を経て府中(現安芸郡府中町)に至る近世の山陽道にあたる
ルートとの両方の陸路を押さえられるとともに、中世の海田湾は現在より
二キロは入り込んでいたと考えられるから、海上との連絡も容易であっ
た。
鳥籠山城は大永七年(一五二七)に大内氏の部将陶興房の率いる大軍に攻
められた(「天野興定合戦手負注文」天野毛利文書)。これより先、阿曾
沼氏が多くの安芸国人と同様大内方から尼子方に寝返ったためで、この年
の二月二十三日瀬野川河口を押さえる日浦山城(跡地は現安芸郡海田町)
が攻略され、三月八日には鳥籠山城が包囲された(今仁文書)。その後し
ばらく防戦したが、十八日になって阿曾沼氏は降伏を請い、家臣野村木工
允の切腹を条件に許された(房顕覚書)。
標高約一〇〇メートルの本丸(径一四─二〇メートルの長円形)を中心
に、東・西・北の三方に30近くの郭を配している。本丸の北方尾根上の
諸郭は空堀で区画され、東側郭群の北側の谷には石垣で画された数段の平
地があり、屋敷跡とも考えられる。船越から上瀬野に至る広大な阿曾沼氏
領には随所に支城が築かれていた(「鳥籠山城(とこのやまじょう)跡」