周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

室町時代の都市伝説

  応永二十三年(一四一六)七月二十六日条 (『看聞日記』1─55頁)

 

 廿六日、晴、

  (中略)

      (録)

  抑伝説記禄雖比興、風聞巷説記之、去比京下方辺米有沽却者、件家男一人来

             マス

  米買ヘシトテ、器物升云物預置、取来ランマテ、此升ヲ持上ヘカラスト

  云テ、ウツフケ置男帰了、其後待トモ不来、翌日不来、不審之間升持上

  見之処、小蛇蟠リテアリ、奇異成之処、此小蛇即時、サテ家主

  娘十六七許ナル容顔好カリケル蛇巻取、家内ウチ失、父母仰天叫喚

  スレトモ行方不知云々、

  又或説、京下方住男、宇治今伊勢参詣シケル、社頭辺白蛇アリ、此男扇

  開テ宇伽ナラハ此扇ヘ来ルヘシト云ケル、此蛇扇ノ上ヘハイノホリケレハ、

  悦裹以下向シケリ、サテ家安置シケリ、而不慮物出来テ、人

  物賜ナトシテ心安成ケレハ、宇伽神ナリトテ仏供貴敬シケリ、

                         (マヽ)

  去程此白蛇追日大成ケリ、次第成長シケレハ、隈恐此蛇取捨ント男シ

  ケルヲ、妻云様、宇伽神ニテアラハ、取捨ヘキヤウヤアルト云ケレハ、ケニモ

  ト思テ置タリケルニ、男他所出行シタヒニ此妻ネフタク成テ昼寝ヲシケリ、

  或時隣人ノソキテ見レハ、大ナル蛇、此女蟠テアリ、男ニ此様ヲ告タリ

  ケレハ、男我モナトヤラン、此程ムクツケキ心アリ、サテハ不思儀哉ト云テ、

              〔覗〕

  外ヘ罷マネヲシテ、隣ヨリ除ケレハ、此妻如聞昼寝シケリ、大蛇来リテ女ノ

  上ヘハイカ丶リケルヲ見テ、男走出テ太刀抜テ切ラントシケレハ、蛇女

  ヤカテヒシヽヽト巻テ、イツチカ行ツランウチ失、男尋求ケレトモ行方不知、

  其後ヨリ又スカヽヽト貧窮ニ成ケリ、不思儀之由聞之、

  又去五月之比、河原院聖天ヘ女房一人参詣シケリ、七日満々ケル日、御前ニ

  所作シテ居タリケルカ、ツヰ立テ出ケリ、良久見ヘサリケレハ、寺僧アヤシミテ

  見ケル、藪向テ小便ヲシケルカ、ヨリステル風情ヲシケレハ、アヤシクテ

  暫見ケルニ、此女タ丶ナラス悩乱シケレハ、人々ツケテ寄見タリケルニ、

  大ナル蛇小便穴ヘ入テケリ、法師トモ寄合テ、女ヲアヲノケテ、蛇ノ尾ヲ取テ

  引ケレトモ出ス、四五人力ヲ出シテ引ケル時、蛇ノスキサシノ辺ヨリ切頭ノ

  方ハ腹ヘ入ヌ、女房死セルカ如ニ成タリケリ、イツクノ人ソト問ケレハ、息ノ

  下ニシカヽヽノ所ト云ケレハ、人ヲツカハシテ告ケリ、輿中間ナトアマタ来テ、

  女房取テ帰ケリ、ヤカテ死タリトキコユ、容顔モヨニ尋常ナル女ニテソ有

  ケル、何事ヲ祈精申ケルヤラン、聖天ノ罰カトソ沙汰シケル、カ丶ル不思儀トモ

  満耳、

 

 「書き下し文」

  抑も伝説の記録比興なりと雖も、風聞・巷説之を記す、去んぬる比京の下方辺り米

  沽却する者有り、件の家に男一人来て「買ふべし」とて、器物升〈マス〉と云ふ物

  を預け置く、「取りに来らんまで、此の升を持ち上ぐべからず」と云ひて、うつふ

  け置きて男帰り了んぬ、其の後待つとも来たらず、翌日も来たらず、不審の間升を

  持ち上げて見るの処、小蛇蟠りてあり、奇異の思ひを成すの処、此の小蛇即時に大

  に成りぬ、さて家主の娘十六七ばかりなる容顔好ましかりける女を蛇巻き取りて、

  家内を通りてうち失せぬ、父母仰天・叫喚すれども行方知らずと云々、

  又或る説、京の下方に住む男、宇治の今伊勢へ参詣しけるに、社頭辺りに白蛇あ

  り、此の男扇を開きて「宇伽ならば此の扇へ来たるべし」と云ひけるに、此の蛇扇

  の上へはいのぼりければ、悦びて裹み以て下向しけり、さて家の乾の角に安置しけ

  り、而して不慮の外に物出で来て、人も物を借し賜ふなどして心安く成りければ、

  宇伽神なりとて仏供を備へて貴敬しけり、去んぬる程に此の白蛇日を追ひて大に成

  りけり、次第に成長しければ、畏み恐れて此の蛇を取り捨てんと男しけるを、妻が

  云ふ様、「宇伽神にてあらば、取り捨つべきやうやある」と云ひければ、げにもと

  思ひて置きたりけるに、男他所へ出行したびに此の妻ねぶたく成りて昼寝をしけ

  り、或る時隣人のぞきて見れば、大なる蛇、此の女の上に蟠りてあり、男に此の様

  を告げたりければ、「男我もなどやらん此の程むくつけき心あり、さては不思儀か

  な」と云ひて、外へ罷るまねをして、隣より覗きければ、此の妻聞くごとく昼寝を

  湿気り、大蛇来たりて女の上へはいかかりけるを見て、男走り出でて太刀を抜きて

  切らんとしければ、蛇女をやがてひしひしと巻きて、いづちか行きつらんうち失せ

  ぬ、男尋ね求めけれども行方知らず、其の後より又すかすかと貧窮に成りけり、不

  思儀の由之を聞く、

  又去んぬる五月の比、河原院聖天へ女房一人参詣しけり、七日に満ち満ちける日、

  御前に所作して居たりけるが、つゐ立ちて出でけり、良久しくして見へざりけれ

  ば、寺僧あやしみて見けるに、藪に向ひて小便をしけるが、よりすてる風情をしけ

  れば、あやしくて暫く見けるに、此の女ただならず悩乱しければ、人々につげて寄

  りて見たりけるに、大なる蛇小便の穴へ入りてけり、法師ども寄り合ひて、女をあ

  をのけて、蛇の尾を取りて引けレドモ出でず、四、五人力を出だして引ける時、蛇

  のすきさしの辺りより切れて頭の方は腹へ入りぬ、女房は死せるがごときに成りた

  りけり、意づくの人ぞと問ひければ、息の下にしかじかの所と云ひければ、人をつ

  かはして告げけり、輿の中間などあまた来たりて、女房を取りて帰りけり、やがて

  死にたりときこゆ、容顔もよに尋常なる女にてぞ有りける、何事を祈精申しけるや

  らん、聖天の罰かとぞ沙汰しける、かかる不思儀ども耳に満つ、

 

 「解釈」

 さて伝説などというものは、記録してもつまらないものだが、耳にした話を書き止めておこう。少し前のことだが、下京あたりで米を売る者がいた。その米屋に男が一人やって来て「お米を買いましょう」と言って、枡を置いた。「今度取りに来るまで、この枡を持ち上げてはいけません」と言い、枡を伏せて置いたまま、その男は出ていった。その後、いくら待っても男は戻ってこない。その翌日も男は来なかった。あまりにも変だと思ったので、その枡を持ち上げてみたら、枡の下には小さな蛇がとぐろを巻いていた。不思議に思って見ていたところ、この小蛇はたちまち大蛇になってしまった。この米屋には、十六〜七歳くらいの顔のかわいらしい娘がいた。大蛇はその娘にぐるぐると巻き付いて、家から出て行き、姿を消した。両親は驚き、大声をあげて泣き叫んだが、娘の行方はとうとう分からなくなってしまったという。

 また別の話。下京に住んでいる男が宇治の今伊勢神社へお参りしたら、社頭あたりに白蛇がいた。この男が扇を開いて「もしあなたが宇賀神ならば、この扇に乗って下さい」と言った。そうしたら、この蛇が扇の上に這い上ったので、喜んで布に包んで連れ帰った。そして自分の家の北西の角に社を作って、そこに蛇をお祭りした。そうしたら、思いがけず物が手に入ったり、他人も物を貸してくれたりして、生活が安定してきた。それでやはりこの蛇は宇賀神だと思い、お供えをして大切にしていた。そうしているうちに、この白蛇は次第に大きく成長していった。それで恐ろしくなって、男はこの蛇をどこかに捨てようとした。それに対して、妻は「宇賀神であるならば、捨てるべきではありません」と反対したので、その通りだと思い直して、捨てるのをやめた。その後、この男が他所に外出する度に、この妻は眠たくなって昼寝をしていた。ある時、隣人が男の家を覗いて見たら、大きな蛇がこの女の上で、とぐろを巻いて、うずくまっていた。隣人がこの事を男に知らせたら、男は「俺もなぜかしらこの頃、気味悪く胸騒ぎがしていた。さては信じられないようなことが起こっているのかもしれない」と言った。それで男は外出する振りをして、隣の家から自分の家を覗いて見ていたら、聞いたとおり、妻は昼寝をしはじめた。そこへ大蛇がやって来て妻の上へ這い上がろうとした。男はそれを見て、走り出し、太刀を抜いて蛇を切ろうとした。そうしたら蛇は男の妻をきつく巻き取って、外へ出ていってしまい、どこかに行方をくらました。男はあちこち尋ね歩いたけれども、一向に行方は分からない。それから、男はまた、たちまち貧乏になってしまった。これは本当に不思議なことだという話を聞いた。

 またこの五月のころ、河原院聖天へ一人の女が参詣した。お籠もり七日目の最終日、本尊の歓喜天の前でお祈りをしていたが、急に立ち上がって女は外へ出ていった。その後、しばらくしても姿が見えないので、心配した僧が外へ探しにでた。そうすると、女は薮に向かって小便をしているようだった。しかし、身体をよじる様子なので不審に思ってしばらく見ていると、女はとても苦しみ始めた。それで周囲の人々に事態を知らせて、近づいてみると、大きな蛇が女の小便の穴に入っていた。僧たちが集まって、女を仰向けにして、蛇の尾を引いてみたが、引き出せない。さらに四〜五人が力を合わせて引いたら、頭のえらの部分から蛇の身体がちぎれて、頭の方は女の腹の中に入ってしまった。それで女は死んだようになってしまった。どこに住んでいる人か尋ねると、女は絶え絶えの息の下で、どこどこの者ですと言った。そこで、その所へ人をつかわして事情を説明させた。輿舁ぎ中間の者など大勢がやって来て、女を連れて帰った。その後すぐに女は死んだとうわさに聞いた。顔かたちがとても美しい女であったが、いったい何を祈願したのであろうか。歓喜天の罰があたったんじゃないかと推測する者もいた。このような不思議な話をたくさん聞いた。

 

*解釈、注釈の一部は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(二)」(『山形県

 米沢女子短期大学紀要』50、2014・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=203&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 「注釈」

「今伊勢」─現宇治市神明宮西の神明神社。宇治郷の西南端、旧奈良街道が宇治丘陵を

      通過する所の路傍に鎮座。唯一神明造の社殿二棟があり、伊勢内宮・外宮

      を勧請している。境内は古木の多い自然林で、付近一帯の丘陵を栗隈山

      (栗駒山)と汎称するため栗隈(子)(くりこ)神明とよばれ、宇治神

      明・今神明・今伊勢などの別称もある。祭神天照大神豊受大神。旧村

      社。

      社伝によれば、平安遷都後まもなく勧請されたというが、文献上は「康富

      記」嘉吉二年(一四四二)九月二七日条に「参詣宇治神明」、翌二八日条

      「自宇治上洛之処、於木幡庭田少将等、神明参詣也、可

      伴之由被申之間、又路次取返参神明了」とみえるものが早い。

      しかし「看聞御記」応永二三年(一四一六)七月二六日条には「京下方ニ

      住男、宇治今伊勢へ参詣シケルニ、社頭辺白蛇アリ」とある。おそらく一

      五世紀初頭以前に伊勢の御師により神明信仰が伝播して創祀され、にわか

      に盛んになったものであろう。また神明の西方に伊勢田の地名があり、式

      内伊勢田神社などがあるところから、付近が伊勢神宮の御厨であったとす

      る考えもあるが、証する史料は見いだせない。

      文明一一年(一四七九)四月、日野富子の参詣があり、それに端を発した

      宇治郷と三室戸の民衆の争論によって騒動が起こっている(「晴富宿禰

      記」同月二六日条)。その参詣の日は四月一七日(後法興院記、大乗院寺

      社雑事記)とされるが、「晴富宿禰記」には四月二二日条に「室町殿御

      台、今日御参詣宇治神明八幡宮寺也」と記される(『京都府の地名』平

      凡社)。

「宇賀神(うがじん)」

  ─福の神。以下、『日本の神様読み解き事典』「宇賀神」(柏書房、1997)よ

   り部分引用。仏教で、すべての衆生に福徳を授け、菩提に導くと信じられた福神

   で「うかじん」ともいう。宇賀神の宇賀は梵語の「宇賀耶(うがや)」がもとに

   なっており、それを訳した「財施」からきて福神とされたものだという人もい

   る。財施というのは仏教用語でいう三施の一つで、仏や僧侶、または貧窮してい

   る人などに物品や金銭を施すことをいう。

   また、日本神話のうち、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)や保食神(うけもち

   のかみ)と音が似ているところから、これと同一神ともされている。

   また、宇賀神は白蛇を祀った神ともいわれ、七福神のなかの弁財天の別称ともい

   う。

   そして、宇は天で、虚空蔵菩薩・父・金剛界と考え、賀は地で、地蔵菩薩・母・

   胎蔵界と考え、神は観世音菩薩と考え、総じて弁才天だと説いている。

「河原院聖天(しょうでん)」─京都・祗陀林寺の歓喜天のことか。

「中間(ちゅうげん)」─公家や武家に仕える、侍と小者の中間の位にある従者。

 

 

口裂け女トイレの花子さん、コックリさん、人面犬…。私が幼かったころには、こんな都市伝説が流行っていましたが、最近の若い人たちのあいだでは、どんなものが流行っているのでしょうか。

 大学時代、民俗学の授業で現代の都市伝説を勉強しました。教科書は『ピアスの白い糸』(白水社、1994)。自分の知らなかった都市伝説が満載で、楽しく授業を受けたことを思い出します。

 この史料に限らず、これまでも怪しげな伝説や噂をブログで紹介してきましたが、今回は「蛇特集」です。エピソード1の元ネタはわかりませんが、エピソード2の元ネタは、『沙石集』巻第七の四「蛇ノ人ノ妻ヲ犯シタル事」、エピソード3の元ネタは、『今昔物語集』巻二九第三九「蛇女陰を見て欲を発し穴より出でて刀に当たりて死ぬる語」だと思います。いずれも、少しずつ元ネタの内容とは変わっているので、室町時代特有のアレンジが加えられているのかもしれません。

 さて、今回の内容とはまったく関係ないのですが、記事の冒頭にこんな表現がありました。「器物升と云ふ物を預け置く」、つまり「物を入れる器具、枡という物を預け置いた」とわざわざ書いているのです。これには驚きました。

 考えられることは二つです。一つは、記主伏見宮貞成親王は、これまで「枡」という器具の存在を知らなかったということ。もう一つは、この日記の読者(おそらく貞成親王の身内)が「枡」の存在を知らないと考え、わざわざ「枡は物を入れる器具」という説明を加えたということ。どちらか確定はできませんが、皇族のような身分の高い人々は、庶民にとって馴染み深い「枡」の存在を知らなかったようです。皇族たちの私生活や国家財政を支える租税。それを計量する最も大事な道具が「枡」なんですけど…。