周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

とある解答例

 2016年 岡山県立大・前期

 

問題1 設問1

「モノ環境」 (72字)

モノ環境とは、人間が生まれ育っていく自然や建造物を指す物的環境のことであり、その生育環境としての都市空間そのものが著しく無機質化し、無人化した。

 

「ひと環境」 (75字)

ひと環境とは、生活している人々やその人々の関係のありようを指す社会的環境のことで、家族や地域における人間関係が希薄化したことで、多様性が乏しくなった。

 

 

設問2

1960年あたりから、子どもの生育環境である都市空間が無機質化・無人化したことにより、子どもの心象風景も無機質化・無人化してしまった。また、家族構成員が減少しただけでなく、農村部の過疎化と都市部の過密化によって、人間関係の多様性が乏しくなったり、人々が互いに関心も交流ももたなくなったりするようになった。これらが、子どもの社会化不全の原因である。課題文で指摘されているように、子どもは大人との直接的な交わりによって社会化されていくと考えられるので、そのような活動を行なえばよい。ただし、一方的に大人が子どもに指示するような活動ではなく、子どもに主体性や責任をもたせなければ、積極的な交流は生まれないだろう。

(300字)

 

 

問題2 設問1

我々は、高齢者を一人の個人としてではなく、集団や社会制度の対象として捉えた場合、否定的に考えることが多い。それは、人が年齢とともに魅力や知性を失い、体も心も不能になるという偏見をもっているからである。

(100字)

 

設問2

高齢者が抱える問題について、18歳〜64歳の人々がイメージした項目の順位と、65歳以上の人が実際に経験した項目の順位は、必ずしも一致するとは限らないこと。

(74字)

 

設問3

高齢者一人ひとりを見ると、老いの進行度はそれぞれ違うことに気づくのだが、集団になるとその差異に気づきにくくなると考えられる。加えて、人間は年齢とともに魅力や知性を失い、体も心も不能になるという間違ったイメージのせいで、高齢者の集団は偏見を受けやすいのだろう。高齢者への偏見をなくすためには、彼らの社会活動を適切に評価する制度を導入し、加齢と能力の衰えが一致するとは限らないことを証明する必要があると考えられる。生産年齢に該当する人々を評価するのと同様に、高齢者に対しても、純粋に仕事の実績によって評価するべきである。高齢者だけ年齢というバイアスをかけて判断するというのは、どう考えても不当である。

(298字)

 

 2016年 岡山県立大・後期

 

問題2 設問1

課題文の娘は、「よりどころ」という力を蓄えていたと考えられる。なぜなら、一人暮らしをしているこの娘は体調不良になったのだが、遠く離れた母親の支援を断り、自分の友人の助けを得て危機を克服したからである。

(100字)

 

設問2

私が最も必要だと考える力は、「心と身体の健康」である。これは、人間が幸せに生きていくために最も必要な基盤である、と考えられる。課題文では、この他に4つ力が指摘されているが、心身が不健康であれば、生きがい・夢を持つことや、経済的自立を実現すること、家事を行なったり、自らよりどころを確保したりすることは難しくなるだろう。何事も健康第一である。私はこうした健康力を養うために、家庭における食事の充実を図るべきだと考える。子どもたちの健全な心身をつくるためには、栄養バランスのとれた、おいしくて楽しい食事が必要である。だが、現代の子どもをめぐる食事環境は、けっしてよいとは言えない。保護者の仕事の忙しさや貧困などの事情によって、朝食の欠食や孤食が大きな問題になっている。このような問題に対処すべく全国で広がっているのが、「子ども食堂」である。こうした取り組みを援助することが、大人のなすべきことと考える。

(399字)

 

 

2016年 岡山県立大 推薦

 問題1 設問1

 

理想的自己を構成する固有の価値や、相互作用的価値の否定面にあたる秘密が露見することによって、恥は現象する。恥はこうした価値からの逸脱を通して価値を自覚させ、価値実現へと向かわせる力を秘めたもので、価値に対して両義的に作用するものである。

(118字)

 

 設問2

「恥ある」(恥を知っている)とは、「良心のある」という賛美的形容詞である、と筆者は説明している。つまり、恥を知るということは、物事の善し悪しを知り、道徳意識を持っているということである。ただ、この道徳意識も、不変ではない。たとえば、「男は家庭をもって一人前だ」といった価値観が、一昔前には存在していた。未婚男性は、さぞかし肩身の狭い思いをしただろう。現在でもこのような価値観が生きている地域や国もあるだろうが、日本の場合、未婚者は増加し続けているし、このような言葉はセクハラの一言で否定される。そもそも恥や道徳意識は、他者との関係性のなかでしか生み出されないものである。この世に自分一人だけが存在しているのであれば、他者だけでなく自己を意識することもない。したがって、他者が変化すれば、自己も自ずと変化する。「恥ある」とは、それぞれの時代や地域における他者との関係によって、内実が変化する言葉である。

(400字)

 

 

 問題2 設問1

表1の昭和63、平成12、18、21年を見ると、「大人が一人」世帯の貧困率が前年より下降しても、「子どもの貧困率」が下降するとは限らないことがわかる。平成3年が例外となるのは、「大人が二人以上」世帯の貧困率も下降しているからであり、「子どもの貧困率」への影響が大きいことがわかる。

(140字)

 

2015年 岡山県立大 推薦

 

 問題1 設問1

「理解できた」というのは、他人から詳しい説明をうけ、それを論理的にわかることであるが、「わかった!」というのは、何かのヒントと自分のもっている知識によって、ある状況が解釈できたという場合で、説明の道筋が明瞭に浮かび上がっている状態である。   (119字)

 

 問題2 設問1

近代的自我は、人間の誕生とともに最初から孤立的に存在するものであるが、クーリーの考える自我は、成長が進んだ段階で、他者との関わりにおいて形成されるものである。                 (79字)

 

 

 設問2

近代社会における利己主義の典型事例といえば、戦争である。自国の利益を追求しつづけたがゆえに、世界は大きな戦争を二度も経験したのだ。この悲惨な出来事によって、世界各国は大きな損害を蒙ることになった。ところが、現代ではグローバル化の名の下に、国家の枠組みを超えた経済的・社会的な交流が急速に進みつつある。そのおかげで、近代以前とは比べようもない進歩を手に入れた。他国と協力することで、自国の利益を追求してきたときよりも、豊かで発展した社会になっている。他者の利益を考えることが、自国の発展にもつながるということが実証されたといえよう。利己主義を乗り越えるためには、利他主義こそ追求するべきであると考える。

(300字)

 

2015年 岡山県立大 後期

 

 問題1 設問1

人間は何をするにも、まず健康が第一である。健康の価値は病気をしてはじめてわかるもので、健康になってしまえば健康のことを忘れてしまうので、人生にとって健康は目的と呼べるものではない。一方で、人間にはこの世でしなければならない使命をもってこの世に生まれてきたのであって、大事なのはその使命を果たすことである。そのために、すべての人が健康を保って生長していくことは、人生にとっての前提条件となるから。

(197字)

 

 

 設問2

身体に故障があったり、不健康だったりすると、それを治させようと思って身体は痛みを感じさせる。だが、辛抱できる痛さだったら、人々はつい身体に悪いところがあっても、面倒で治さないだろう。だから、痛みが相当強く、時に強すぎるのは、人間を生かすためには必要なことで、この苦痛が強いことは、それだけ人間を地上に生かしたがっている自然の意志の強さと正比例していると見ることができる。人間は、健康を害したとき以外は、痛みを感じない。したがって、健康になってしまえば、もう健康のことは忘れてしまう。その忘れがちな健康こそ、人間が生きていくためには最も大事な前提条件であることに気づかなければならない、という意味。

(298字)

 

 

 問題2 設問1

豊かさや効率が追求されている現代社会では、人は時間に追われ、地位や役割に縛られており、また個性的であることが過度に奨励されているため、自分らしく生きることが難しいという閉塞感に包まれているということ。

(100字)

 

 設問2

現代の情報化社会では、多様な選択肢が与えられているが、どれもありふれたものばかりであり、また現代人は、過剰な自分らしさへの志向を抱え込んでいるため、それを実現できず、不全感を抱えてしまっているから。

(99字)

 

 設問3

社会の風潮に毒されて、本当はどこにも存在しない「自分らしさ」という幻影を追い求めるような生き方をしていると、自分らしく生きることが難しいという閉塞感や、そうすることができないために生じる不全感を抱き、苦しむことになる。しかし、気負ったり装ったりしてばかりいるのをやめて、あるがままの自分を受け入れ、認めることができれば、その人に変化が生じる。過剰な「自分らしさ」への志向をから離れることで、それまでの自分とは異なった、あるがのままの自分自身になることができるのである。このように、あるがままの自分が自分らしさであることに気づくことができれば、力の抜けた、楽な自然体の生き方ができるようになるから。

(298字)

 

 

2014年 岡山県立大 後期

 問題1 設問1

ある夫婦が家を立てるのに、夫は海に近いところ、妻は山に近いところがよいと主張し、意見が対立してしまった。二人は議論を重ねたのだが、どちらの意見にも納得ができず、結局海と山の中間地点にある住宅街に家を建てることに決めた。このように、どっちつかずのはっきりしない決着のつけ方を「玉虫色の決着」と呼ぶ。

(148字)

 

 設問2

競合的交渉は、勝ち負けにこだわり、自分のゴールや利益だけ達成できればよいと考えるもので、一時的な取引で終わり、相手との相違点を強調するが、協調的交渉は、自分だけでなく相手のゴールや利益についても満足できるように考えるもので、相手との長期的な信頼関係を重視し、双方の共通点を探そうとする点で異なる。

(148字)

 

 設問3

相手との長期的な信頼関係を強め、当事者間で「協調的雰囲気」を生み出すためには、自分だけではなく相手のゴールや利益についても満足できるように考えなければならない。また、当事者双方の共通点を探しながら、「問題」を「われわれの問題」として捉え、一人ひとりが円満解決の責任を担って前向きに取り組み、「問題」を客観的に見ながら、言うべきことは言う、聞くべきところは聞くという「協調的態度」をとるような方法。

(198字)

 

 問題2 設問1

医師は化学療法を受ければ高い確率で治癒すると楽観的に考え、化学療法を治療プロセスの1つに過ぎないものと見なしているため、副作用による患者の苦しみを過小評価し、その体験を深刻に考えていない、という意味。

(100字)

 

 設問2

睾丸がんの化学療法の副作用には、脱毛だけでなく、吐き気や歯茎の痛み、便秘がある。また、排尿時の焼けるような痛みに加え、免疫系の基礎である白血球の破壊も起こる。                 (79字)

 

 

2014年 岡山県立大 前期

 

 問題1 設問1

世間話や挨拶といった短い会話の意味は、話し手と聞き手の人間関係の確認にある。互いに相手のことを良好な関係にある知り合いとして認め、敵対する相手とは思っていないということを伝えているのだ。また、情報の共有を通して両者が同じコミュニティの一員であることも確認している。これら確認は、自分と相手が共感できる間柄であることを確認することにもなる。世間話や挨拶の認知効果は、情報の中身ではなく、相手が話しかけてきたとか返事をしてくれたという事実の確認によってもたらされる。世間話で伝えたいことが、このような人間関係の確認であれば、聞き手に与える情報は、それ自体に価値がなければないほど、その意図が伝わりやすい。

(300字)

 

 

 設問2

話し手と聞き手の双方が、お互いに良好な関係にある知り合いと認め、両者が共感できる同じコミュニティの一員であることを確認している、ということ。

(70字)

 

 

 

 

 

 

 

問題2 設問1

 ・思いやりと信頼と好意の感情

 ・不信と積極的な悪意の感情

 

設問2

企業社会には、サービスを提供する労働とその代価を取り立てる労働の、二つの極が存在する。前者では、労働者には、思いやりと信頼と好意の感情を抱くことが求められる。後者では、不信と積極的な悪意の感情が求められる。これらの感情を生み出し、持続させていくのが労働者にとっての課題となる。多くの職業は、この二つの極の中間に多数存在し、それらは三つの特徴を備えている。第一に、このような職種では、対面や声による顧客との接触が不可欠である。第二に、それらの従事者は、他人の中に感情変化を起こさなければならない。第三に、そのような職種における雇用者は、研修や管理体制を通じて労働者の感情活動をある程度支配するのである。

(300字)

 

設問3

具体的な方策として、職場の朝礼やミーティングで、会社の理念や目標を参加者の前で宣言させたり、全員で唱和させたりする方法が考えられる。これを継続的に行うことで、必要な感情活動をすり込むことができる。

(98字)

 

 

2015年 岡山県立大 前期

 

 問題2 設問1

作家や画家や音楽家の活動は、自然や日常生活と結びついているように見えるが、科学はそれらと隔たった特別なものに見える。科学者も生活者であり、自然と向き合う人間であって、自然や日常生活抜きでは存在しえないはずだ。だが現在の科学は、研究対象が自然や日常生活であることを忘れ、それらと無関係に、科学技術の開発によって便利な社会を作るための知識と見なされているため、社会との関わりが薄く感じられてしまうのだ。

(199字)

 

 設問2

現代の科学は専門化・細分化し、自らの研究対象が自然であることを忘れ、自然と向き合えなくなっている。こうした問題を克服し、総合的に自然を見るには、まず科学者自身が日常的な生活者としての感覚を持って、自然と向き合うことが必要である。そして、各分野の専門家が自らの専門とは異なる分野に関心を持ち、その異なる分野の専門家と話し合ううちに新しい疑問がわき、それを一緒に考えるという新しい動きを生み出さなければならない。このように、自然を総合的に見る新しい科学を生むためには、科学者自身がまず変化し、そのうえで科学そのものも変化することが不可欠である。そうすれば、近代が依拠してきた世界観を見直すこともできる。

(299字)