周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

とある解答例

年未詳 中国学園

 友だちと育ちあうとは、友だちから学び、友だちに教えながら、互いに生き生きと交わり、大事な仲間だという感覚を共有することである。このように友だちと関わることで、子どもは社会的な人間として成熟していく。

 友だちと育ちあうことについて、私が大切だと考えることの1つ目は、友だちと喧嘩し合うことだ。小学校の時、私は友だちの趣味をからかう言葉を発した。それに怒った友だちとつかみ合いの口論になった。しばらくは口もきかず、寂しい思いをした。些細な言葉が他人を傷つけ、人間関係を壊してしまうことを、私はこの喧嘩から学んだ。友だちも同じようなことを考えていたようで、仲直りをするときに、些細なことで怒ってしまったことを謝ってくれた。友人関係の大切さや相手を思いやる心を、この喧嘩によって私たちは学ぶことができたのだ。

 二つ目に大切なことは、1つの目標に向かって協働することだ。小学校6年生の最後の学芸会は、クラス最後のイベントで、いやがうえにも盛り上がった。何をするか、どう演出するかなど、意見が止まることなく出続けた。役割分担を決め、全員で協力したことで、見応えのある劇に仕上がった。自主性・協調性が芽生え、全員で何かを成し遂げる喜びを知ることができたのである。

 たった一人では学べないこと、親との関係だけでは学べないこと。それらを互いに学び、自らを成長させるのが、友だちと育ちあうことだと考える。

(589字)

 

 

 好奇心とは、珍しいものや面白そうなことに対する興味・関心である。したがって、好奇心を育むためには、珍しいものや面白そうなことに触れる機会を増やさなければならない。この機会こそ、遊びということになる。課題文のように、好奇心から遊びは生まれるのだが、その好奇心を育むのは遊びではないだろうか。

 遊びにも様々なものがある。ただ、現代の遊びには人工的なものが多い。ゲームやテーマパークなど、人間が生み出した仮想空間における遊びが蔓延している。こうした遊びにも、珍しいものや面白そうなことが含まれているのだが、すべて予定調和の結果を生み出し、いずれ飽きが生じてしまう。次々と新しい遊びへと興味が移るため、1つの遊びに対する深まりがなく、熱中もしない。他者から提供された遊びは、いわば受動的な遊びであり、自発性や好奇心は育たないのではないだろうか。

 一方、自然や人と直接触れ合う遊びであれば、予想通りの結果にならないことが多い。例えば、動物を遊ぶことを考えてみよう。毎日同じように動物の世話をしても、動物は同じ行動をとらない。予想のつかない事態が生じるので、興味は尽きず飽きもしない。これが好奇心を継続させ、深めていくことにつながると考える。

 好奇心を伸ばすためには、1つのことに熱中する経験が重要だ。予定調和な出来事ではなく、変化や驚きに満ちた経験をさせることが、好奇心を育むと考える。

(585字)

 

 

 課題文の著者は、「体験」が「経験」になり、未来の生活や行動へとつながるような保育が重要であると論じている。過去から現在に働きかけてくる「体験」と、未来に向けて働きかける「経験」を区別し、「経験」を重視する筆者の考えに、私は賛同する。

 保育所や幼稚園では、遠足や観劇といった行事ばかりではなく、日常の集団生活のなかで様々な体験をする。私が保育所に通っていたころ、友達とよく「だるまさんが転んだ」という遊びをしていた。勝ちたいあまりにそのルールを無視したため、友達や先生から怒られてしまった。私はそこで初めて、ルールを守らなければならないことを学んだ。たとえ遊びであっても、ルールを守らなければ面白くないし、友達からの信頼も失うことになる。その後、私は先生の指示や友達との約束を守るようになった。もしこの体験が体験で終わっていたなら、ルールや約束事を守れない子ども時代が長く続いていたかもしれない。ルールを破ったという幼児期の体験が、先生や友達の注意によって経験化され、その後の様々な場面でも、ルールを守らなければならないという価値観の形成につながったと考える。

 保育所や幼稚園などにおける日常的な生活のなかには、人間が社会生活を行っていくうえで大切な価値観を学ぶことのできる体験が数多くある。そうした些細な体験を経験にできるような保育が最も重要だと考える。

(575字)