周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

とある解答例

 2018年北九州市立大・文・比較・推薦

 

問題Ⅱ 問1

和洋折衷の編成になっている鼓笛隊は、西洋音楽としても非西洋圏の音楽としても中途半端で保存する価値がないとされてきたが、最近では、非西洋圏の文化が西洋文化の襲来に対応し、自らの文化を近代化しつつ自己の文化的アイデンティティを作り上げてきた多様なやり方を伝えるものとしての価値が認められるようになった。

(149字)

 

 

2015年 北九州市立大 前期 法学部 (821字)

 課題文Bでは、学校選択制に賛成の立場を示している。学校選択制の採用が各校の生徒数のばらつきをもたらし、生徒の厚生を下げるという反対意見を、実体のない格差問題として否定している。そして、選択制が廃止されると、公立校に通う生徒と国立・私立校に通う生徒の間に格差が生じると考えている。

 一方、課題文Cでは、学校選択制に反対の立場を示している。学校教育は学歴資格付与機能と職業的地位への配分機能を備えていることから、公立校の序列化・格差化される時期が早まると、格差社会の再生産メカニズムが強まることになると考えている。

 このように、両者ともに「格差」に注目しているのだが、課題文Bでは公立校と国立・私立校との格差を問題とし、課題文Cでは公立校間での格差を問題としている。私は、学校選択制を採用することで、国立・私立校と公立校の格差は狭まるかもしれないが、公立校間の格差は広がると考える。その理由は以下のとおりだ。

 課題文Bで指摘されているように、国立・私立校に進学させるという選択をするためには、経済的に豊かでなければならない。それと同様に、学校選択制を利用して、遠方の評価の高い学校に通わせられるのは、やはりそのような家庭になるだろう。これは課題文Cの主張するとおりだ。経済的に豊かで、教育に対する意識の高い家庭は、公立校の選択ができなければ、国立・私立校に通わせようとするだろう。結局のところ、学校選択制を採用すれば、公立校の教育格差が広がるだけだと考える。

 そもそも義務教育とは、国民が身につけるべき基礎教育を、誰もが等しく身につけるための制度である。課題文Bの議論はその付加的要素の問題であって、義務教育が保証する本来の目的ではない。義務教育後にどのような進路に進むかは当人たちの選択であり、選択できるだけの土台を築ける教育を施せばよいのではないか。最低限保証されるべき教育内容を享受できないような状況に陥るくらいなら、学校選択制は廃止すべきだろう。

 

 

2015年 北九州市立大 推薦 法学部(808字)

 比例代表制を提唱したミルは、少数派が代表者を一人も選出できない当時のイギリス小選挙区制を批判し、「数に比例した代表」ということこそが「民主主義の第一の原則」であるべきだとし、「公正」の概念を軸に、選挙制度論を展開した。一方、小選挙区制を提唱したバジョットは、議会を立法機関としてのみ考えるのではなく、首相の選出という議会の最も重要な役割に注目し、議院内閣制では小選挙区制こそが、安定した多数派を形成して、政局の堅実な運営を可能にすることができると主張した。

 このように、ミルとバジョットでは、議会を立法機関のみと捉えるのか、首相の選出機関と捉えるのかで、大きく議論が分かれている。日本の場合、議院内閣制を採用しているのであるから、政権の安定運営ということを考えれば、小選挙区制のほうが妥当だと言えよう。以下、比例代表制のメリットを批判するかたちで、小選挙区制の妥当性を論じていきたい。

 前述のように、ミルは「公正」という概念を軸に、比例代表制の重要性を指摘したが、フリードリッヒはその「公正」概念に疑義を呈した。たしかに、少数派の代表者を議会に送り込めたとしても、その意見が議決に反映されなければ、結局のところ少数派は公正だと感じないだろう。これは選挙制度の問題ではなく、要求の調整法の問題であるから、比例代表制導入の積極的根拠にはならない。

 また、比例代表制を選択すれば、多数の小政党が乱立する傾向をもつため、連立政権を生みやすく、政局は安定しない。政権交代が頻繁に起こるようであれば、重要な議論を尽くすことはできず、採決も遅れがちになる。それだけではない。経済にも影響を及ぼすのが、現在の政治問題である。不安定な政権が続くようであれば、日本への信用度は低くなり、株価や為替を含めた、日本経済にも負の影響を及ぼしてしまう。

 このように、比例代表制には政権を安定させる効果はないため、日本は小選挙区制を採用すべきだと考える。

 

2013年 北九州市立大 前期 法学部

 

 自分の所属するコミュニケーション圏のなかでは、神経症的なまでに繊細なコミュニケーションをするのに、他のコミュニケーション圏に対しては、何の関心もなく、そもそも相互に話が通じないという状況が、現在至るところに生まれている。だが、異なるコミュニケーション圏どうしの人間が、十分に理解しあえるための適切なインターフェイスの仕組みは、日本社会に欠落しているのである。こうしたコミュニケーション・ギャップを乗り越えるためには、どのような方法が考えられるだろうか。

 私も筆者と同様に、異なるコミュニケーション圏どうしの間をつなぐ場を設け、両者をつなぐ仕事や、それを担う人材を創出していくべきだと考える。その際に、必要なことは次の二点ではないだろうか。

 まずは、異なるコミュニケーション圏にいる人々どうしが、互いに関心をもつように仕向ける必要がある。ここでは、発電所設置問題を事例に考えてみたい。かりに、発電所設置を推進したい行政側と、反対したい住民側で、議論を進めているとしよう。行政側が専門家を招き、住民側に設置意義や安全性をわかりやすく伝えたとしても、住民側がそれに関心をもち、行政側の立場を理解しようとしなければ、議論は平行線のままであろう。逆も同じことである。双方が相手の立場を理解せず、それぞれの意見を主張し続ければ、合意の形成などできようはずもない。まずは、両者の立場によって生まれる固定観念を客観視させ、それを崩す必要があるのだ。

 次に、その固定観念を崩させるためには、そうした行為に長けた人材が必要となる。利害関係にある当事者のなかから、そのような役割を担う人物を出せればよいが、そうでなければ、別に依頼をしなければならない。様々な問題に造詣が深く、かつ中立的な立場で議論を進め、合意の形成に至らしめるファシリテーターを育成することが、コミュニケーション・ギャップを乗り越えるために必要であると考えられる。       (802字)

 

 

2015年 北九州市立大 経済学部 推薦

 

 問1

 

歴史学が危機に立たされている理由は、社会的に関心を呼べる問題設定ができていないところにある。歴史学のプロが社会で必要とされるような問題提起をしておらず、専門家のあいだでだけ通用するような話題ばかり取り上げているため、社会に訴える力が弱まっているのだ。歴史の研究が日本の一般の人にとってどのような意味があるのかを、専門家はあまり考えてこなかったため、大学の歴史研究と一般社会のあいだに隔たりができてしまった。歴史学には、現実の社会的な動きとまったく関係のない要素のあることは事実だが、多くの場合、現実の問題に関わって研究しなければならない。かつての歴史学は、日本のおおかたの知識人の共通の関心事であったものを研究していた。だが、そうした問題意識をあまりに長く持ち続けてきたため、現実の社会的な転換に対して急には対応できず、現実の動きとはまったく無関係に研究がされ、現実から乖離してしまうことになった。

(399字)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 問2

 

 歴史は現実の問題に関わって研究しなければならない、と筆者は主張している。そして、歴史学が現実と向き合うためには、普通の人間の生活感覚に根ざした問題に取り組み、かつ現代のグローバリゼーションに象徴されるような世界的なつながりについても考えていくべきだ、としている。歴史学には時代やテーマ設定があるため、あらゆる問題をグローバリゼーションと絡めて研究することは難しいだろうが、人間の生活感覚に根ざした現実の問題に関わるテーマを設定することは、現代の我々にとっても意義深いと考える。

 私は現代の経済慣行や金融システムに興味をもっているのだが、日本史の授業で鎌倉時代の勉強をしていたときに、様々な経済システムが現れたことを学んだ。特に興味をもったのは貸借関係だ。当時の利子率は5割が普通である。これは現代の利子率に比べるとかなり高い。だがその利子も、現代のように債務が完済されるまで半永久的に膨れ上がることはない。過去と現代、いったいどちらのシステムが、債務者・債権者にとって良いのだろうか。このような現代と異なるシステムを知り、それがいかなる条件下で機能したのかを考えることは、現代のシステムを相対的に評価することにもつながるだろう。

 現代のシステムは歴史的に生み出された到達点だが、けっして完成型ではないのだ。より良いシステムを築くためにも、過去を比較対象として学ぶ必要はあるだろう。

(588字)

 

 

2008年 北九州市立大 推薦 法学部(827字)

 一般的に、コンプライアンスは法律を遵守することと理解されている。しかし、欧米では法令だけでなく、行動規範や実務基準などを具現化した社内ルールはもとより、企業倫理をも含めたものとして議論されている。筆者はルール遵守に加えて、どのようなルールを設定していくのか、どのようにルールを運用していくのかも、考えなければならないと主張する。社会にとって有益なモノやサービスを提供する活動を、適正かつ健全に行うために、組織的な取り組みのあり方を考えることが、コンプライアンスの要諦なのである。

 企業が自社の利益を追求するのは当然だが、その活動が違法であったり、企業倫理に反したりするものであってはならない。一部の人間のコンプライアンス違反によって、企業が信用を失って倒産するだけでなく、下手をすれば顧客の命に関わることにもなる。また、社員の生活や取引先の経営にも悪影響を及ぼすことになるだろう。

 最近の事件で言えば、三菱自動車の燃費不正問題が挙げられる。大企業であるがゆえに、顧客も多く、取引先・下請け業者などの関連企業へ大きな悪影響を及ぼした。倒産する関連企業も出始めたなか、自社のリストラも始まりつつあるのだ。三菱の場合、燃費不正を隠蔽したことで、不正競争防止法に違反する可能性がある。コンプライアンス違反であることは知っていたはずなのに、不正を防止する方策がなかったことに、大きな問題がある。ルールを守るためには、ルールを周知させなければならないし、的確に運用できるような方策や罰則も考えておかなければならないのだ。三菱の事件は、あらゆる企業にとってこのことを考えさせる、良い教訓になるはずだ。

 このように、企業活動は商品やサービスを購入し利用する顧客のみならず、自社の社員、関連企業とその社員などにも広く影響を及ぼすのである。これは、企業規模の大小に関わらず言えることだろう。企業は自社の利益を追求しつつも、社会的な活動を行っていることを、けっして忘れてはならない。

 

 年未詳・北九州市立大・文

 

問題Ⅱ 問1

曲り角とは、昭和40年ごろの若者の話ぶりから、日本語基調と呼ばれる七五調・五七調のリズムが消えていくちょうど境目のことを指しているが、実はそれ以上の大きな変化であったと考えている。人々のさりげない話ぶりからこうしたリズムが消え失せるのを寂しく感じつつも、その変化に伴い、言葉の使い方の網として多くの人々が共通に持っていた慣用表現が役に立たくなってしまうことを危惧している。このような言葉の変化には、生活の仕方の変化が大きく影響しており、そのせいで表現が理解できなくなったり、誤用が進んだりしているのだが、それに文句を言っても仕方なく、新しい生活に立った言い方が整うように努力せざるを得ないと考えている。

(300字)