周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

小田文書23

   二三 山里明所分坪付

 

     山里明所分

      久清名

 一田一段半      米六斗五升      刀禰抱

  田七段       三石四斗       刀禰三郎次郎

    (マ丶)

  田貳段太      一石貳斗       新太郎

  田一段       四斗         三郎五郎

  田一段       五斗五升       刀禰抱

  田貳段       一石貳斗       五郎二郎

  田一段       五斗五升       新太郎

  田四段       一石三斗       刀禰三郎次郎

  田三段半      一石四斗       刀禰抱

  田一段小      五斗         彦四郎

  田三段       一石三斗       九郎右衛門

  田一段       四斗         五郎次郎

   東禅寺領除而

    以上田貳町八段半 分米十貳石八◻︎五升

 重正名内 頼定内ニ在之

 一田八段       三石四斗       五郎右衛門助右衛門 

 國弘名内 頼定内ニ在之

 一田一段       五斗五升       次郎九郎

 同内 頼定内ニ在之

 一田一段       四斗         善右衛門

 同内 頼定内ニ在之

  田三段       壹石六斗       善右衛門

 同内 頼定内ニ在之

  田小        貳斗         同 人

 爲弘名

 一田小        五升         小三郎

 

  田四段       一石八斗       善兵衛

 

  田貳段小      一石三斗       助右衛門

  田三段半      一石五斗       同 人(花押)

        ○以上、二三通ヲ一巻ニ収ム

 

 

 「注釈」

「山里」─戦国時代末期、佐伯郡の山間部を総称した名称。久島・津田・虫所山・友

     田・飯山・栗栖・浅原・白砂・吉和などが山里と称されており、現佐伯町

     吉和村・湯来町の一帯に及ぶ。当地は元厳島神社領で、天文十年(一五四

     一)からは大内氏の支配となったが、大内氏は改めて厳島神社に寄進し、同

     社の祭事復興領に充てた(『広島県の地名』)。

「明所」─未詳。

「頼定」─未詳。

 

*「○以上、二三通ヲ一巻ニ収ム」という校訂注は、これまで掲載してきた二十三通の

 文書が一巻の巻子本に仕立てられていたことを表しています。

 

*どのような経緯で作成された坪付注文なのかは、よくわかりません。相論や譲与の副

 進文書として作成されたのでしょうか。特徴を挙げるとすれば、久清名の年貢負担者

 (だと思います)に、「刀禰」の呼称が目立つことです。当時の刀禰は久清名の名主

 (三郎次郎)だったのかもしれません。