周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

空飛ぶカワラケ! 〜未確認飛行物体 その1〜

  文安四年(1447)三月十二日条 (『建内記』8─27)

 

 十二日、癸卯、天霽、

  (中略)

 傳聞、先夜天有光物、其勢、如土器二十許連續飛天、入空中云々、

 

 「書き下し文」

 十二日、癸卯、天霽れ、

  (中略)

 伝え聞く、先夜天に光る物有り、其の勢い、土器二十ばかり連続飛天するがごとし、空中に入ると云々、

 

 「解釈」

 伝え聞いた。幾日か前の夜、天に光る物が見えた。まるで土器二十ほどが連続して空を飛んでいるかのようだった。そのまま空中に消え入ったそうだ。

 

*空飛ぶ円盤…、ではないんですね。室町人は、未確認飛行物体(たぶん彗星でしょう)の様子を、土器が飛んでいるかのようだ、と表現していたようです。妙に納得です。

 

 

*2018.12.28追記

 中世人は彗星をどのように考えていたのか。その一端がわかる史料を見つけたので、よくわからないところは多いのですが、掲載しておきます。

 

  永享五年(1433)九月三日条  (『図書寮叢刊 看聞日記』4─214頁)

 

               (賀茂)

 三日、晴、(中略)抑彗星占文在方進之、

  今月廿五日昏戌時、彗星見酉与戌之間、在尾、度近貫索其色白、

  天地瑞祥志云、彗星者悪気所生闇乱不明貌也、故除旧布新象也、

  天文要録云、彗星出其国更政立王公、

  斑固云、彗星出国暴兵起移其国、

  京房易伝云、彗星出四夷来、兵革起、死人如乱麻、哭声遍野、

  内経云、彗星其色白為喪、

  又云、秋彗星見、西方為兵、

  又云、彗星見、其歳五穀悉傷有飢疾、

    永享五年八月廿七日   正三位賀茂朝臣在方

  条々凶事驚存、今夜三日月不出現、殊晴天也、然而不見、仙洞御祈於北野有御千

    (季保)

  度、四辻以下参云々、

 

 「書き下し文」

 三日、晴る、抑も彗星の占文在方之を進らす、

  今月二十五日昏戌の時、彗星酉と戌の間に見ゆ、尾在り、度貫索に近くその色白し、

  天地瑞祥志に云く、彗星は悪気の生む所闇乱れ貌明らかならざるなり、故に旧きを除き新象を布くなり、

  天文要録に云く、彗星出づるに其の国政を更め王公を立つ、

  斑固に云く、彗星出づるに国に暴兵起こり其の国に移る、

  京房易伝に云く、彗星出づるに四夷来たりて、兵革起こり、死人乱麻のごとし、哭声野に遍し、

  内経に云く、彗星其の色白きに喪に為る、

  又云く、秋に彗星を見る、西方は兵に為る、

  又云く、彗星見る、其の歳の五穀悉く傷み飢疾有り、

    永享五年八月廿七日   正三位賀茂朝臣在方

  条々凶事驚き存ず、今夜三日月出現せず、殊に晴天なり、然れども見えず、仙洞御祈北野に於いて御千度有り、四辻以下参ると云々、

 

 「解釈」

 三日、晴れ。さて、彗星の占文を賀茂在方が進上した。

  今月八月二十五日夜、戌の時、彗星が酉と戌の方角の間に見えた。尾があり、その長さは貫索星に近くその色は白い。

  『天地瑞祥志』によると、彗星は悪の気が生み出したもので、暗闇を乱し、その相貌ははっきりとしないのである。したがって、古い体制を取り除き、新たな体制を布くのである。

  『天文要録』によると、彗星が出現すると、その国の政治が改まり、新たな王が立つ。

  『漢書』天文志によると、彗星が出現すると、国に暴兵が起こり、その国に移る。

  『京房易伝』によると、彗星が出ると、四方の異民族がやってきて、戦争が起こり、死人がもつれた麻のように重なっている。泣き叫ぶ声が大地に広く響きわたっている。

  『内経』によると、彗星の色が白いと凶事になる。

  また、秋に彗星を見る。西方は戦争になる。

  また、彗星を見る。その年の五穀はすべて損なわれ、飢饉が起きる。

    永享五年八月廿七日   正三位賀茂朝臣在方

  一つひとつの凶事に驚くばかりである。今夜三日月が出現しなかった。とりわけ晴天である。しかし見えなかった。後小松上皇は、北野社で千度祓を行いなさった。四辻季保以下が参詣したという。

 

 「注釈」

「天地瑞祥志」

 ─666年、新羅人の薩守真によって執筆された。これは天文に関する書物とみなされているが、内容は多方面にわたる。首巻は総論で、巻二は天地人三才、巻三は「三光」、巻四と巻五は二十八宿、巻六と巻七は星官、巻八は流星、巻九は客星と彗星、巻十は暈と雲気、巻十一は雷電、巻十二は風雨、巻十三は夢、巻十四は謡言や魂魄など無形なもの、巻十五は植物、巻十六は五行と月令、巻十七は住宅と器物、巻十八は禽類、巻十九は獣類、巻二十は祭祀について述べている。このうち現在伝存しているのは第一、七、十二、十四、十六、十七、十八、十九、二十巻のみである(劉捷「『天地瑞祥志』から見た『山海経』の受容と伝播」『東アジア研究』13、2015・3、http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/metadata/D300013000012)。

 

「天文要録」

─唐の李鳳(六二二〜六七四)が麟徳元年(六六四)に撰述した。しかし中国では早くに散逸し、日本でも前田育徳会尊経閣文庫(以下、尊経閣と略称)に写本があるほか、その転写本である人文研本(二十五巻分)、また国立天文台本など数種しか現存しない。書目では日本の藤原佐世日本国見在書目録』に「天文要録五十」とあるのみで、中国ではその名を留めない。尊経閣文庫に残るのも、全五十巻のうち二十六巻分に過ぎない。しかし、日本では天文道の安倍氏(中世より賀茂氏も)や天文密奏宣旨の中原氏の天文奏文に、『天地瑞祥志』などとともに占断の典拠として利用される。また戸板保佑編『天文四伝書』(天理大学附属天理図書館蔵)「天文秘書」に『天文要録』の巻一(目録・序)が採録されており、日本ではしばしば用いられた形跡がある。元来は土御門家に代々継承されていたようであるが、土御門家所蔵本は現存しない。内容は日月星辰に特化しており、各星座の気に関する項目はあるが、雲気、風角などは含まない。三家それぞれを内宮(官)と外官(宮)に分類する。中宮ではなく内宮と称する例はこれと『天地瑞祥志』のみである(前原あやの「天文占書の解題と『天文占書フルテキストデータベース』の意義」『関西大学東西学術研究所紀要』49、2016・4、https://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/bulletin.html)。なお、「天文占書フルテキストデータベース」URLは、http://www.temmon.org

 

「班固」─『漢書』天文志のことか。

 

「京房易伝」

 ─「京氏易伝」。前漢の代表的易学者京房(字君明、前七七〜前三七)の著作。易学によって災異を説明した(釜田啓市「前漢災異説研究史」『中国研究集刊』25、1999・12、https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61208/?lang=0&mode=0&opkey=R154484725759438&idx=12、辛賢「京房『八宮積算法』試論」『筑波中国文化論叢』21、2002・3、https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=83&item_id=3744&item_no=1)。

 

「内経」

 ─『黄帝内経』のことか。中国の漢代(前206〜後220年)頃に編纂されたものであると推定され、『素問』と『霊枢』二部の合計46巻162篇からなっている。著者は不明だが、複数の人により書かれたとの説もある。『内経』は現存の中国医学の理論著書として最古のものであり、また、中医学理論の原典でもあると認められている。その内容は医学という学問分野をはるかに超え、天文学、暦学、気象学、生物学、地理学、心理学および哲学などの多くの分野に及び、中国古代の勤労者と科学者の研究成果と知恵を吸収している(郝暁卿「『黄帝内経』の叡智」『福岡県立大学人間社会学部紀要』22─2、2014・1、http://www.fukuoka-pu.ac.jp/kiyou/mokuji.htm)。

 

「千度」

 ─「千度祓(せんどばらい)」のこと。神道行事として行う祓の一方式。中臣祓などの祓のことばを千度くりかえし唱える修法で、多人数が同時に行うのを常とし、十人ならば百遍、百人ならば十遍をもって千度祓とする。千度の御祓(『日本国語大辞典』)。