十 大内氏奉行人書状(切紙)
去五月十八日、至二豊後国薄野浦奥郷一動之時、別而有二御馳走一被レ致レ疵之段、
則達二上聞一候之處、如レ此被三成二遣 御感状一候、御面目之至尤以珍重候、弥御
忠節可レ爲二専一一候旨候、恐々謹言、
天文三年(1534)
六月廿日 興實(花押)
(仲次)
能美縫殿允殿
「書き下し文」
去んぬる五月十八日、豊後国薄野浦奥郷に至り動くの時、別して御馳走有りて傷を致
さるるの段、則ち上聞に達し候ふの處、此くのごとく御感状を成し遣わされ候ふ、御
面目の至り尤も以て珍重に候ふ、弥御忠節専一たるべく候ふ旨に候ふ、恐々謹言、
「解釈」
去る五月十八日に、豊後国薄野浦奥郷に行き、大友軍と戦った時、格別に奔走して傷を被りなさったことは、すぐに大内義隆様のお耳に入りましたので、このように御感状をお遣わしになりました。この上ない名誉で、いかにもめでたいことでございます。ますますご忠節を遂げられることが第一であるということです。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「薄野浦奥郷」─現大分県西国東郡真玉町臼野。『大分県の地名』(「臼野庄」)に、
この史料が引用されています。
「興實」─右田興実。玄蕃助・下野守。薄野浦攻撃の軍事指揮官。周防右田氏は、周防
国佐波郡右田保(現防府市)を本貫地とする大内氏の一族。有力庶家の一つ
として宗家を支えたが、弘治三年(一五五七)毛利氏の防長侵攻に際し、大
内氏を見限って毛利氏に味方した。
(和田秀作「周防右田氏の相伝文書について」『山口県文書館研究紀要』
四一、二〇一四・三、
http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/kiyou/041/kiyou41-04.pdf)。
「能美縫殿允殿」─七代仲次(秀依)。