一八 某書状
(ウハ書)
「 進上 末松殿」
畏申上候、
(部ヵ)
抑両寺之間寺務職之事、 連々御□屋にもわたし申へきよし申候しかとも、かたく
(辞退)
御志たい候間、其後貴殿ニ申上候しか共、かなうましきよし被仰出候間、不及申
候、今ハはや身の事もきわまるしきにて候ふほとに申上候、われらかしうていの
(後闕)
「書き下し文」
畏み申し上げ候ふ、
抑も両寺の間寺務職の事、 連々御部屋にも渡し申すべき由申し候ひしかども、堅く御辞退し候ふ間、其の後貴殿に申し上げ候ひしかども、叶ふまじき由仰せ出だされ候ふ間、申すに及ばず候ふ、今は早身の事も極まる仕儀にて候ふほどに申し上げ候ふ、我らか醜態の
「解釈」
畏れながら申し上げます。
さて、法持院と中台院の間で相論となっている、楽音寺寺務職のこと。私は、たびたび奥様にも、「(中台院に?)寺務職を譲り渡し申すのがよい」と申しましたが、きっぱりとお断りになりましたので、その後にあなた様に申し上げましたが、あなた様も許さないと仰せになりましたので、これ以上、何も申すことはできません。いま私は、早くも命が尽きてしまうような事態ですので、この件を申し上げております。私どもの醜態の
*解釈はよくわかりませんでした。
「注釈」
「末松殿」
─竹原小早川氏の「内の者」(池享「中世後期の在地動向」『大名領国制の研究』(校倉書房、1995.9、113頁、https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/18661/)。解題に記されているように(「極楽寺文書1」の記事参照)、極楽寺文書は法持院関係の史料が多いので、この文書の差出は法持院だったと考えられます。また、「ウハ書」には竹原小早川氏の被官「末松」の名が記されているので、この内容は末松を取次にした、竹原小早川氏への書状だったと考えられます。ちなみに、法持院のある梨子羽郷南方の地頭職は、竹原小早川氏が所持しています。以上のことからこの史料は、法持院が何らかの理由によって、楽音寺寺務職(院主職)を中台院に譲与しようとしたが、竹原小早川氏から制止され、八方塞がりになっているという窮状を訴えた書状だった、と考えられます。
「両寺」─楽音寺の院主を務めた法持院と中台院のことか。
「御部屋」─未詳。誰かの妻か。