周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

ハーレム内の憂鬱1

  応永三十一年(1424)五月六日・七日・九日条

                 (『図書寮叢刊 看聞日記』3─35〜36頁)

 

            (後小松上皇

 六日、時々雨灑、只今聞、仙洞祗候女房大納言典侍殿〈甘露寺故大納言兼長卿息

            〔世〕(持頼ヵ)

  女、〉逐電云々、土岐与安密通露顕云々、但定説不分明、与安事自仙洞室町殿

              土岐(土岐持益)

  被訴仰之間、与安逐電了、仍美濃守護被仰、可討伐之由有御下知云々、与安

    〔惣〕

  土岐宗領伊勢守護也、失生涯之条不便也、(後略)

 

                        (資則) 

 七日、晴、聞、大納言典侍懐妊云々、近習人々日野一品禅門以下被書告文、但与安

  密通露顕歟、定説不審、彼局逐電之処、様々被尋被求出、人ニ被預置云々、

 

 九日、雨降、仙洞女房事種々風聞、所詮与安密通台所別当也、〈山徒樹下息女〉

                                 松木

  但与安不限有結縁之人数、御糺明之間、白状申、所謂中御門中納言入道宗量、

     〔知〕(橘)

  治部卿友興朝臣云々、友興則逐電了、台所別当逐電之処、被尋出被預父

  樹下云々、大納言典侍も同前、勿論也、近習卿相雲客被書告文云々、洞中猥雑、

  言語道断事也、希代不思儀歟、

 

 「書き下し文」

 六日、時々雨灑ぐ、只今聞く、仙洞に祗候の女房大納言典侍殿〈甘露寺故大納言兼長卿息女〉逐電すと云々、土岐世安との密通露顕すと云々、但し定説分明ならず、世安の事仙洞より室町殿へ訴え仰せらるるの間、世安逐電し了んぬ、仍て土岐美濃守護に仰せられ、討伐すべきの由御下知有りと云々、世安は土岐惣領伊勢守護なり、生涯を失ふの条不便なり、

 

 七日、晴る、聞く、大納言典侍懐妊すと云々、近習の人々日野一品禅門以下告文を書かる、但し世安の密通露顕か、定説不審、彼の局は逐電するの処、様々に尋ね求め出だされ、人に預け置かると云々、

 

 九日、雨降る、仙洞女房の事種々風聞あり、所詮世保の密通は台所別当なり、〈山徒樹下の息女〉、但し世保に限らず結縁有るの人数を御糺明するの間、白状申す、所謂中御門中納言入道宗量、治部卿知興と云々、知興則ち逐電し了んぬ、台所別当も逐電するの処、尋ね出だされ父樹下に預けらると云々、大納言典侍も同前、勿論なり、近習の卿相雲客告文を書かせらると云々、洞中猥雑、言語道断の事なり、希代の不思議か、

 

 「解釈」

 六日、時々雨が降った。たったいま聞いたところによると、後小松上皇にお仕えしていた女房の大納言典侍殿(亡くなった甘露寺大納言兼長卿の息女)が逐電したという。世保土岐持頼との密通が露顕したそうだ。ただし、真相ははっきりわからない。土岐持頼のことは、後小松上皇から室町殿足利義持へ訴えなさったので、土岐持頼は逐電した。そこで、室町殿は美濃守護土岐持益に仰せになり、討伐せよとご命令になったという。世保は土岐氏の惣領で伊勢国の守護でもある。生活のよりどころを失ったことは気の毒なことである。

 

 七日、晴れ。聞くところによると、大納言典侍が懐妊しているという。近習の人々である日野一品禅門資則らが起請文をお書きになった。ひょっとすると、世保土岐持頼の密通が露顕したのか。真相ははっきりしない。この大納言典侍は逐電したが、様々なところを尋ね捜し出され、人に預け置かれたそうだ。

 

 九日、雨が降った。仙洞の女房のことで様々な噂がある。結局、世保土岐持頼の密通相手は、台所別当日吉社の社家、樹下家の息女〉であった。ただし、土岐持頼以外にも密通した人間をご糺明になったので、(台所別当は)白状した。世間で言われているのは、中御門中納言入道松木宗量と治部卿橘知興だそうだ。橘知興はすぐに逐電したそうだ。台所別当も逐電したので、捜し出されて父の樹下に預けられたという。大納言典侍ももちろん同様である。近習の公卿や殿上人らは起請文を書かせられたそうだ。仙洞御所中の雑然として下品な状態は、とんでもないことである。世にもまれなけしからぬことであろう。

 

 「注釈」

「土岐与安」

 ─世保土岐持頼か。?〜1440(?〜永享十二)。室町時代の武将。伊勢国守護。刑部少輔。大膳大夫。世保康政(土岐康行の子、伊勢守護)の子。正長元年(1428)、伊勢国北畠満雅足利持氏の命により反幕挙兵の動きを示した際、これを幕府に報じた。ついで幕命を受け、同族の美濃守護土岐持益の支援を得て満雅を討ち取った。その後も義教との関係を深め功を積んだが、逆に義教の疑いを受け、永享十二年(1440)五月十五日、大和の出陣先で突然、一色義貫とともに殺された(『鎌倉・室町人名辞典』新人物往来社)。

 ?─1440。室町時代の武将。伊勢国守護。刑部少輔、のち大膳大夫。康政の子。世保氏を称す。応永三十一年(1424)仙洞女房の密通事件に関係して一時伊勢守護を解任されたが、正長元年(1428)北畠満雅小倉宮を報じて挙兵した際再任され満雅を討って伊勢を平定した。永享十二年(1440)五月十六日、国人一揆鎮圧のため大和三輪山麓に滞陣中、将軍足利義教の命を受けた長野氏らに攻められ自害した。竜源寺春岩と号す(『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。

 

「土岐持益」

 ─?〜1474(?〜文明六)。室町時代の武将。美濃国守護。右京大夫・頼益の子。応永二十九年(1422)、美濃の守護に任じられ四十三年間在職。その間、正長元年(1428)八月、南朝の遺臣、伊勢国北畠満雅小倉宮後亀山天皇の皇子)を奉じ伊勢で挙兵した際、同国守護土岐持頼を助けて満雅を討った。義持・義教との関係も深く、永享十一年(1439)には侍所頭人に任ぜられた。文明六年(1474)九月七日、六十九歳で没す。法名常祐(『鎌倉・室町人名辞典』新人物往来社)。

 

「告文」

 ─①神に申し上げる言葉を記した文書。宣命体がふつう。②虚偽のないことを神仏に誓い、また相手に表明するための文書。「告文する」といえば起請する意。「告文を捧げ申す」という(『古文書古記録語辞典』)。この場合、密通していないことを表明した起請文のことと考えられます。

 

「山徒樹下」

 ─近江坂本の日吉社の社家の一つ樹下家(『中世寺院社会の研究』思文閣出版、2001)。

 

松木宗量」

 ─従二位前権中納言松木宗宣。応永三十年(1423)二月二十九日出家。法名常祐。五十二歳(『公卿補任』)。

 

「橘知興」─右兵衛(左兵衛)・三河守・治部卿(『尊卑分脈』)。

 

「失」

 ─起請の失。鎌倉時代の訴訟法上の挙証方法。訴訟の当事者が主張を起請文に書き、一定期間(七日間など)神社に参籠し、その間に鼻血が出ること、発病することなどの所定の失(しつ)が現れると、その主張は虚偽であり、失が現れない場合は真実と判定された。起請文の失(『日本国語大辞典』)。

 

「青侍」

 ─貴族の家に仕える身分の低い侍。六位の位袍の色が深緑であるところから出た語という。青年および官位の低い者を称し、「なま侍」というも同意か(『古文書古記録語辞典』)。

 

 

*少々とりとめのない記事になりますが、これから4回にわたって、仙洞御所における密通事件を紹介していきます。密通や密懐という事象にそれほど興味があったわけではないのですが、応永31年(1424)の記事だけで、実に10件もの密通が露顕しており、さすがに驚きました。これまで、貴族の男女関係は比較的自由で、密通関係も黙認されているのかと思っていたのですが、室町時代の後小松上皇称光天皇のときには、かなり厳格に取り締まられていたことを知り、先行研究を調べてみようと思ったわけです。以下の記事で徐々に新たな密通関係が判明していきますが、ここでまとめて示しておきます(「密通関係一覧」)。

 

 まず、世保土岐持頼との密通が疑われた大納言典侍ですが、実際のところは、治部卿橘知興がその相手でした。一方、世保土岐持頼の本当の密通相手は台所別当でした。この台所別当は、大納言典侍と密通した橘知興、称光天皇の母日野西資子と関係をもった松木宗量とも密通していたのです。

 台所別当と関係をもった世保土岐持頼は右衛門佐とも密通し、その右衛門佐は中山有親と院の召次幸末佐(久重)とも関係をもっていました。

 その他に、室町殿足利義持と上臈(三条公光の息女)、医師和気保成と称光天皇の女官、正親町三条実雅と一条局(日野盛光の息女)も密通関係にありました。

 以上、6年間で都合12件の密通が発覚しています。この密通件数が多いのか少ないのかよくわかりませんし、なぜこの時期に一挙に露見し、問題化したのかもわかりません。また、バレなかっただけで、実はもっと多くの密通関係があったのかもしれません。

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 ところで、宮女(宮廷に仕えた女性)が廷臣たちと密通することのどこに問題があったのでしょうか。まずは、宮女がどのような存在であったのかを確認してみたいと思います。参考になるのが、奥野高廣「室町時代の皇室御経済運用機関」(『皇室御経済史の研究』正篇、国書刊行会、1982、初版1942)、「宮女」(『戦国時代の宮廷生活』続群書類従完成会、2004)です。後ほど、後者の研究内容をそのまま提示しますが、ここでは簡単に概要をまとめておきます。

 まず、宮女とは、宮廷の奥御所(内廷)に仕えた女性のことで、常に天皇の側近にいて、奏請・伝宣・陪膳・経済などの任務に携わっていました。また、位の高い上臈・典侍・内侍、命婦たちのなかには、皇子・皇女の生母となっている人も少なくありませんでした。とくに上臈や典侍は、平安朝の初めから天皇の正妃と同じようにお伽に侍したのですが、室町時代では立后がなかったので、上臈や典侍たちは皇室の一員と考えてよいそうです。

 この指摘を踏まえると、今回の密通事件の問題点が見えてきます。密通の当事者になった女性たちは、単なる仙洞御所の職員だったというだけでなく、後小松上皇のお伽を務めていた、あるいは務める可能性のあった女性たちであり、それを廷臣が寝取ったために、大きな問題になったと考えられそうです。

 それにしても、当事者たちは揃いもそろって、みな逐電しています。バレたら逃亡…。これが当時の慣習だったのでしょうか。

 

 

*追記

「廷臣」

 ─禁裏と室町殿の両者を権力基盤にして、公家官人の身分秩序を超えて活躍した特権貴族・官人層のこと(井原今朝男「廷臣公家の職掌と禁裏小番制」『室町廷臣社会論』塙書房、2014、271頁)。

 

「宮女」(奥野高廣『戦国時代の宮廷生活』続群書類従完成会、2004)

  第一節 宮女について

 宮女(『運歩色葉集』)すなわち宮廷の奥御所(内廷)に仕えた女性は、常に天皇の側近にあっただけでなく、戦国時代には、天皇の正妃に準ずる地位にあった人々とか、皇室経済を管理した人もあって、女性史の上からも高く評価されねばならない。

 内廷には、内侍司(ないしのつかさ)・蔵(くらの)司・書(ふみの)司・薬(くすりの)司・兵(つわものの)司(内廷の兵器管理)・闈(みかどの)司(門の鍵を管理)・殿(主殿寮と同じ)司・掃(かにもり)司(掃部寮と同じ)・水(もいとり)司(主水司と同じ)・膳(かしわでの)司(内膳司と同じ職掌)・酒(みきの)司(造酒司と同じ)・縫(ぬいの)司の十二司(十二の官庁)があって、その官人は中国の唐の官制をまねて、いずれも尚(かみ)・典(すけ)・掌(じょう)・の三字で長官・次官・判官を示す。例えば殿司には、尚殿・典殿・女嬬の職員があった。しかし内侍司・典司・掃司以外の九司は、後に廃絶し、闈司などは儀式の時においたにすぎない。

 内侍司には尚侍二人・典侍四人・掌侍(内侍)四人・女嬬百人があって、天皇に常侍して奏請(天皇に申し上げる)とか、伝宣(天皇の意思を伝える)のことに当たった。神鏡(皇位のしるしの八咫鏡)奉安の場所に内侍などが常に伺候しているため、内侍所の名称が起こるけれど、鎌倉時代になると内侍は、もう後宮の局(部屋)に移っていた。また尚侍の官は戦国時代にはなく、典侍が長官である。しかし上臈は、二位とか三位で典侍の上位であるから、室町時代の上臈は、尚侍と同じ地位にあったろう。

 宮女には、位の高下で上臈・小上臈・中臈・下臈の区別があった。大臣や大中納言の女であって、二位・三位の典侍を上臈といい、公卿(大臣・大納言・中納言・参議で三位以上の人)や四位・五位の殿上人(清涼殿の南の端の殿上に昇れる人)の女を小上臈とよび、諸大夫(しょだいぶ・五位の人)・和気氏・丹羽氏・勘解由小路家・土御門家などの女を中臈・諸侍(摂政大臣の家人)や賀茂・日吉社などの社司の女を下臈とした。そして上臈・中臈・下臈の宮女を総称して女房という。大宝令の制では、五位以上の宮女を内命婦(うちのみょうぶ)とし、五位以下のを外命婦(げみょうぶ)といったが、のちには中臈の女房を命婦とよぶ。

 「上臈」には東御方(ひがしのおんかた)・南御方・廊御方・対御方・御妻・一条殿・二条殿・三条殿・近衛殿・冷泉殿・春日殿・坊門殿・堀川殿・高倉殿・大宮殿・京極殿などの称号があり、

 「小上臈」には四条・五条・六条・大納言・按察使・民部卿中納言・帥・左衛門督・別当・兵衛督・大蔵卿・刑部卿・治部卿・宮内卿兵部卿など、

 「中臈」には小宰相・小督(こごう)・小兵衛督・中将・少将・左京大夫(たいふ)・左衛門佐などの称号、

 「下臈」には侍従・小侍従・少納言・少弁などと、伊予・播磨・丹後・周防・越前・伊勢・尾張・美作・備後・甲斐・下野・筑前などの国名がつく(室町将軍の奥座所に仕えた女性の呼名も宮廷のまねをしている。『大上臈御名之事』)。

 戦国時代には、内侍司・殿司・掃司の宮女以外に、女蔵人・御匣殿蔵人二名・内教坊・女史(おんなふびと)・掌縫(しょうほう)・主殿女嬬(とのものにょじゅ)・水取・采女・得選(とくせん)・刀自(内侍所・御厨子所などに勤める)・女嬬・女官(にょうかん・御湯殿などに勤める)・下女などの宮女が勤めていた。長女(おさめ・下女の長だろう)・樋洗(便器を洗う)・厠人(便器を取扱う)などもいたであろうが、その証拠はない。

 

  第二節 戦国時代の宮女

 宮女でも命婦以上は局をもつが、それ以下は御末とか局に属して、使役された。そのあらましは次のようである。

 上臈局 女房や、皇室領の伊勢栗真荘(くるまのしょう)から出した仕丁一人を召使っている。

 乳人 天皇親王・皇子・皇女に乳人があった。そして「御乳人局官女小茶」などの名前もみえる。

 大典侍局 あや・あちやち・茶々などの召使があった。

 新大典侍局 才・阿茶々・あここなどが勤めていた。

 長橋局 小督・あやや・茶々・あかか 右京大夫・やや・鶴・あここ・いと・阿茶・五位・下女若狭・阿五・御万などが各時点において勤めている。

 新内侍局 いちや・あかか・阿五々などの名がみえる。

 播磨局 今参・あやなどの宮女がいた。

 伊予局 小少将・さい・阿茶々・阿五・御万とか、児も新参している。

 女嬬 女嬬職掌の一つは掌灯を置くことであったが、その人員はよくわからない。天文十五年(一五四六)二月には、京都清水寺目代円陽院宗澄の女が姉と代わり、またその妹も女嬬を勤めるようになった。

 お末 宮女らの食事や廷臣などに下さる酒饌の調進をした場所が台所で、お末などがそこに勤めていた。とを・薄以緒の室・かか・たと・あかか・阿茶・梅などの名がみえる。総人員はわからないが、『言継卿記』には二、三箇処にわたり末衆五人とあるから、これが全員かもしれない。

 女官 記録類に官女と書いてあるのは、宮女の広称と女官の場合とがあった。『御湯殿上日記』元亀三年(1572)正月三十日の条には、「ありなか(土御門有脩)御みかため(身固)まいる、いつものことし、きちやう所に御ふく(服)おかれる、申つきねうくわん(女官)する」と書いてある。「たと」や「ほた」は女官であったらしい。

 御下 下仕のことで、雑役を勤めたのであろう。天文八年(一五三九)三月には、近江国日吉神社社家の女が御下(おしも)になった。日吉社祠官の女が、宮廷に奉仕することは江戸時代にもつづく。なお『御湯殿上日記』天正十五年(一五八七)九月一日条などに見える「御物し」はお服の裁縫などを司ったものである。

 下女 御下と同じように雑役を勤めたものであるらしい。

 得選 二人であった。御厨子所に奉仕する。

 禁中に常住している宮女の総員についてはよくわからないが、五、六十人ほどであろう。

 掌侍以上の任命には宣旨(外記や弁官から出される公文書)がでた。上臈は天皇が代わるとともに、二位に叙せられ、典侍は五位であるが、御代替とともに多くは三位に叙せられ、勾当内侍は職をやめると、典侍に任ぜられる慣例である。

 典侍の上席の者は、宮女を監督していた。そして勾当内侍でも宮廷では、足袋をはくことができない。

 

  第三節 宮女の職掌

 宮女には、天皇に常侍したのと、内侍所に勤めたものとがある。天皇に常侍したのは、上臈・典侍・内侍であり、内侍所に常時仕えたのは、一采女(いちのうねめ)以下刀自・女嬬であった。そして天皇の側近に仕えた宮女は、奏請・伝宣・陪膳・経済などの任務をもつ。

 奏請・伝宣 上臈・典侍掌侍は、天皇の側近にあって、勅旨の伝宣にあった。

 陪膳 宮女は朝御物や御拝・御湯殿の儀・御手水などに奉仕し、そして陪膳を勤めた。宮女が支障のときには廷臣に命じたこともある。この陪膳は晴儀と平常とで区別がある。

 そして専ら陪膳をつとめたのは采女であった。戦国時代でも内侍所の阿子は、一采女を兼任している。『御湯殿上日記』永禄十三年(一五七〇)二月一日の条には、

  けふはないし所のさい(才)心わろきとて、あさかれいまいらす、

 とあって、采女が陪膳を勤めたことがわかる。ただそれは儀式とか一日などの場合で、平生は典侍などであろう。また御厨子所の女官で、采女から選ばれた得選が勤めたこともある。御飯を調進したのは櫃司(ひつかさ)という二人の女性であったことは別に述べる。

 また上臈・典侍・内侍または命婦のうちには、皇子・皇女の生母となっている人が少なくない。ことに上臈や典侍は、平安朝の初めから天皇の正妃と同じようにお伽に侍したが、室町時代では、立后のことがなかったから、上臈や典侍は宮女だが、皇室の一員と考えられよう。

 勾当内侍つまり長橋局(第一編第二章「皇居」の項参照)は、皇室経済運用の実務に当たった。その例を一、二あげてみよう。

 一、皇室領から年貢などの納まったときの請取状は、長橋局が出している。また禁裏内の金銭を納めた倉庫を管理した。

 二、御倉職などから融通させたときには、長橋局が借状を出す。

 三、支出金は長橋局の手をへる。

 四、御服の調達を司った。『御湯殿上日記』天正十五年(一五八七)七月二日の条に「くこの御ふく一かさね、なかはしよりまいる」などとある。

 五、そして長橋局で、このような実務に従ったのは右京大夫(実名は不明)であった。右京大夫のうちには十八歳で初参し、八十八歳まで務めたものもある。

 供御調進 供御について宮女の職掌は前にのべた。

 内侍所奉仕 内侍所で神鏡に奉仕したのは、采女以下の女性であった。室町時代の主な人員は十九人ほどである。そして、一采女を勾当といい、天正九年(一五八一)には長橋局が内侍所別当を兼ねている。内侍所勤務の人員は、刀自・博士命婦二人・掃部のいち・女嬬などで構成される。

 宮女のうちには、一生を宮廷に仕えた人も少ないくないが、職を退いて家庭生活に入ったものもある。

 

  第四節 宮女の風俗

 当時の女性が宮廷に出仕した動機は、皇室の勧誘によるものと、志願したものとがある。