周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

とある解答例

2013年 広大経済後期 問題1 要約

 

20世紀に入り目立ちはじめたハイパーインフレは、国家秩序を破壊するほどの激烈な力を持つ。それを阻止する対策に定説はないが、過去の事例から学びとれる点も少ないくない。一般にインフレは、政府が大量の紙幣を印刷して巨額の政府支出を調達し続けることによって発生する。歴史的に見ると、インフレが起きた場合、貨幣供給量の増加率よりも物価上昇率の方が高い場合がほとんどであった。そのため紙幣印刷が過剰になり、インフレが悪化してきているにもかかわらず貨幣が不足し、さらに印刷しないと追いつかないという奇妙な状況が起こる。これは、紙幣増刷によって税金を確保しようとする政府と国民との、富の分配をめぐる戦争なのである。

(299字)

 

 

  2014年 広大・経済1

 問題1

エラーを技術の進歩につきものの些細な問題と考えるのではなく、技術の進歩の方向性は人間や社会が判断し決定していることを踏まえ、エラーのなかに人間や社会の問題が内在されているものとして考えるということ。(99字)

 

 問題2

技術の開発研究や政府などによる政策決定は、マスメディアによって日本中の国民に伝えられる。しかし、それらの情報を受け取った国民が抱く考えや感情が、技術開発者や政府に伝わる機会はあまりない。だから私は、その機会を増やせば良いと考える。たとえば、人々が受け取った情報について、自分の考えを話し合う機会を設ける。その話し合いを、マスメディアによって日本中に報道する。そうすれば、彼らの考えや意見が、開発者や政策決定者に届き、何か新しい発見や思考に繋がるかもしれない。このように、マスメディアをうまく利用することによって、技術の研究開発や政策決定に影響を与えることができるのではないだろうか。

 

 

  「自由と支配の両義性」

 自由な身体、自由な思想、あるいは自由な選択。一見すると、これらは良いイメージを与える。反対に、支配されている身体、支配された社会などから与えられるイメージは悪いものばかりだ。「自由」と「支配」はまったく正反対の意味を持つ言葉であるが、本当にイメージ通り「自由」は良いもので、「支配」は悪いものであるのだろうか。ここでは、「自由」と「支配」のそれぞれについて考えてみる。

 まず、一般的に良いイメージを与える「自由」から考えてみる。近現代になって私たちは、さまざまな自由が得られるようになった。例えば、黒人奴隷が解放されて自由の身になったり、自由な発言が許されるようになったりした。資料二にもあるように、「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」という法律で定められた自由まで手に入れた。このように、全近代に比べて、人間はさまざまな束縛から解放されつつある。

 しかし、私の経験上、「自由」というものは無制限であると、逆にその「自由」によって困惑させられてしまうこともある。私が進路選択をしたとき、母親に「あなたの好きなようにしなさい。後悔のない選択をしなさい。」と言われた。これは一見すると、自分の思い通りにすることができ、私にとってはとてもありがたいことだった。だが、私はこの自由な選択に大変困惑したのだ。ある程度の条件や制限があれば、順を追ってだんだん絞り込むことができるのだが、制限がまったくないため、決定するのに非常に苦労したのである。自分で自由に選択するということは、それに伴う将来への自己責任をも受け入れなければならない。これが困惑の理由だ。

 また、自己の自由を主張するならば、他者の自由も許容しなければならない。資料四にある「自由な社会」がそれである。「自由な社会では、互いに相容れない多様な生のスタイルを生きる人たちが、平和に共存しなければなりません。」という言葉に象徴されている。たとえ嫌悪を感じる他者であっても、彼らが自由に振舞うのを我慢してこそ、自己の自由も実現できるのである。

 次に、「支配」について考えてみる。「支配」によって縛られることをたいていの人は嫌う。しかし、この「支配」も見方を変えることにより、少し違った意味が見えてくる。資料一にあるように、そもそも私たちは権力や社会集団によって支配されている。この支配がなくなれば、独立し自由になることはできるが、独立によって生まれた孤独に耐えられなくなる。ある程度の支配があることで、生活の安定を保つことができるのである。

 このように、「自由」と「支配」とは、必ずしも一面的な意味を持っているわけではなく、それらは時に反対の意味を持ってしまうことがある。人間がよりよく生きていくためには、無制限な「自由」と「支配」に注意し、両者のバランスを適切に保つことが最も大事である。

(1176字)

 

 

  「成熟のもたらす影響」

 成熟という聞き慣れた言葉も、いざそれを人間や社会に適用しようとすると、なかなか難しい。いったい成熟とはどのような意味として用いられ、また人間や社会にいかなる影響をもたらしたのだろうか。

 まず、成熟という定義について考えてみたい。その際、注目されるのが資料1と資料5である。資料1では、人間が未成年の状態を抜け出るために、啓蒙が必要であると述べている。つまり啓蒙は、未成年から大人になるという成熟に必要な手段だとわかる。そして啓蒙は、他人の指導がなくても、自分自身の悟性を使用する勇気を持つことを目指している。自らが自発的に物事を考え、理解できるようになれば、それは成熟した人間、つまり、大人になったということになる。

 一方、資料5によれば、近代社会の特徴を「学校化社会」という言葉で説明し、偏差値や学歴の重視、子どもから大人に至る期間の長期化現象を指摘している。私たちは、この学校教育期間に社会の仕組みの基本を学んでいる。それらは、すでにできあがったものであり、一般に正しいとされているものである。学校教育は、それらを理解し、使いこなせる人間を再生産してきたのではないだろうか。この場合、成熟した人間とは、教育内容を正確に身に付けたもの、ということになるだろう。

 このように見てくると、資料1と資料5では、成熟という言葉の内容が異なっていることに気づく。自ら考えるのか、それとも出来合いの知識を受け入れるのか。ここに、成熟の違いが読み取れる。資料1と資料5のどちらを成熟と考えるかによって、生み出される人間や社会は自ずと異なってくる。

 資料3には、近代資本主義社会は計算できるもの、目に見えるもの、言葉によって明確に表現できるものを獲得してきた、とある。これらは、合理的で効率的なものばかりだ。近代社会は、学校教育の名の下に、長期にわたって、これらを正しいものとして教え続けてきた。このような教育によって成熟した人間は、それらを正しいものと思い、その妥当性に疑問を感じることもない。むしろ、大多数の人間が疑問を感じないからこそ、近代社会は再生産されてきたと言えよう。

 このような近代社会を、資料5では個人が未熟なままでも生きていける成熟社会と呼んでいる。だが、個人が未熟なままでも生きていける社会を、本当の意味で成熟した社会と呼ぶことはできない。なぜなら、未熟な個人がいくら集まっても、未熟な社会しかできあがらないからだ。出来合いの知識を受け入れるだけでは、成熟した人間とは呼べない。共同体の結びつきが弱まったことにより、当たり前と思われていた価値観が大きく揺らいでしまった近代社会において、再度その価値観を考え、理解することが必要なのではないだろうか。資料1のカントの定義づけが、いま人間と社会に求められている。

(1152文字)

 

 日本には、「和魂漢才」という言葉がある。我が国の歴史や文化に大きな影響を与えた国といえば、江戸時代までなら、中国を中心とした東アジアの国々であろう。日本人はそれらの文明を取り込み、消化しながら、独自の文化を発展させてきたと評価されている。私は、以下の二つの事例によって、中国の文明が日本の文化にどのような影響を与えてきたのかを考えていきたい。

 最初の事例は、「稲作」である。米は縄文時代晩期に大陸から渡ってきた、いわゆる海外の食材だが、現在でも日本人の主食とされている。この米や稲作が日本の文化に与えた影響は計り知れない。

 米の特徴は、長期保存が可能である点、そして一粒で約五〇〇粒もの籾を実らせることができる点にある。つまり、米は食材というだけでなく、貯蓄・増殖可能な資産にもなったのである。この性質が、稲作の普及した弥生時代の日本に、貧富や身分の差をもたらした。

 現代では、肥料・農薬・農耕機械の普及や品種開発によって、稲作も随分と簡単にできるようになったが、本来はかなりの重労働を強いた作業であった。土地の耕作に始まり、用水路の整備、田植え、草取り、稲刈り、脱穀、精米に至るまで、その仕事は多岐にわたる。また、国土の四分の一しか平野のない日本では、水田を作ろうとしても、山地を切り開かなければならなかった。長い間、稲作は個人や小規模な家族で行えるほどの軽労働ではなかったのである。稲作を行うためには、親族や近隣住民との協働が必要となり、血縁・地縁意識の強化にもつながっただろう。近年まで日本人の特徴と言われてきた共同体意識の強さは、稲作がもたらした影響の一つだったといえる。

 また稲作は、日本人の宗教心にも大きな影響を与えている。稲作伝来以降、日本人が米の集積・増殖に執心するようになると、豊作を祈願し感謝する祭祀も、身分の上下を問わず、全国各地で行われるようになった。前述のように、稲作は協働作業であるがゆえに、祭祀も共同で執行し、その費用も共同体として拠出したのである。この費用が「公事」という税の始まりとされている。

 また、伝統芸能と呼ばれる踊りや演劇に至るまで、その起源を遡れば、稲作祭祀に行き着くものも多い。たとえば、能や狂言は、稲作祭祀で踊られた田楽に由来する。こうした祭祀には、自然と共存し、その恩恵を受けてきた日本人の心性が、象徴的に表現されているといえよう。

 さらに、米は租税や貨幣の役割を果たすようにもなった。明治の近代化に至るまで、米は税の中心であり、水田の面積・租税額・租税負担者は、国家や地域権力によって把握された。米が税目として全国に普及すると、他の品目との交換レートも地方ごとに成立し、全国規模で流通しはじめる。こうして、米の保管・流通・売買・貸借といった諸商売が成立し、中世以降に経済活動が活発になったのである。海外から輸入された米によって、日本は独自の財政・経済制度を作り上げていったのである。

 もう一つの事例は、「漢字」である。もともと無文字文化であった日本にとって、漢字伝来の意義は大きかった。「伝言ゲーム」を例に出すまでもなく、口頭伝承は伝えれば伝えるほど、その内容は変容しやすい。だが、文字を使えば、これまで以上に正確な内容を伝達することができるようになる。

 周知のとおり、漢字は弥生時代に渡来人によって伝えられたものである。「漢字」を習得することによって、日本語を文字として表記することができるようになっただけでなく、中国や朝鮮半島から最先端の知識や技術、諸制度などを輸入することができたのである。

 たとえば、日本人の考え方に大きな影響を与えたものに、儒教や仏教といった高度な思想や宗教がある。儒教・仏教は、複雑な因果関係や道理、倫理観を語ったものであり、文字がなければ理解することさえできなかったはずである。また、政治制度の輸入にも、漢字の果たした役割は大きい。日本で最初の中央集権的な統治体制である律令制度は、唐の律令を輸入・改変したものであった。文字がなければ、全国各地への命令系統は機能しない。と同時に、全国各地からの上申系統も機能しない。文字なくして、政治は成り立たないのである。

 その一方で、日本人は漢字をそのまま受け入れたわけでもなかった。奈良時代の「万葉仮名」、平安時代の「ひらがな」・「カタカナ」のように、漢字を簡略化し、日本語化したのである。日本人は「漢字」・「ひらがな」・「カタカナ」といった三種類の文字を使いこなすことで、日本特有の文化を形成してきたのである。平安時代中期に、「ひらがな」を使用した宮廷文学が花開くことは、よく知られている。その後、「ひらがな」や「カタカナ」の使用は、こうした中央の身分の高い人々だけにとどまらず、地方の民衆にまで普及していくのだ。

 有名な事例として、紀伊国の「阿氐河荘百姓等言上状」がある。これは百姓たちが地頭湯浅氏の横暴を訴えた訴状で、全文「カタカタ」で書かれた生々しい文章である。この一通の文書から、鎌倉時代には上層百姓が「ひらがな」や「カタカナ」を書いていたことがわかる。地方の民衆は、文字の使用によって、政治力・司法力も身につけつつあったと言えよう。

 それだけではない。地方の民衆が文字を使えるようになると、地方独自の文化が発展することにもなる。これまで口頭伝承で伝えられてきた祭祀・芸能の内容や運営法が、文字で記録されるようになる。これを代々踏襲していくことで、伝統文化が生まれてきたのである。

 このように、日本の文化は海外文明を消化・吸収し、それを日本の状況に応じて改変しながら、独自の文化を形成してきたといえる。

(2305字 25字×26行)