周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

とある解答例

2013年 高知県立大 文化学科

 

設問3

水音がすぐに消えたことで、芭蕉の主観は沈黙の自然という客観に包み込まれ、水音の前よりもしみじみとした静けさの余韻を感じていると解釈しているところに、主観と客観が同一であるという考え方が反映されている。

(100字)

問4

菜の花が見渡すかぎり一面に咲いている。夕暮れの月が東の空に昇り、太陽は西の空に沈もうとしている。

 

問5

 芭蕉の俳句に詠まれた「古池」は自然の代表で、「蛙」は人為の代表と理解でき、両者は二つの世界観を象徴しているという解釈と、「水音が聞こえたのはほんの一瞬で、その後は、その前の沈黙の世界芭蕉を包み込んでしま」うという解釈を踏まえると、私は次のような解釈も成り立つと考える。自然の前では、人為など刹那的で儚いもので、自然の一部でしかない。芭蕉はこれを表現しようとしたのではないか。古池に象徴される自然は、水音が立つ前からただそこにあり、水音が消えた後にもただそこにある。人為は自然の前では一瞬の出来事で、それとは対照的な、不変の存在としての自然を描き出そうとしていると解釈できる。蛙が水音を立て、それが消えゆくという一連の様子に耳を傾けていた芭蕉も人為であり、その意識も静けさという自然に包み込まれることで、自然と一体化したことを表現したものと考えられる。

 一方、与謝蕪村の俳句には、芭蕉の俳句とは異なり、人為は表現されていない。「菜の花」「月」「日」という自然の風景が描かれているだけだ。ただし、表現こそされていないが、その風景を眺めているのは蕪村本人である。この俳句でも、蕪村という人為とは無関係に、有史以前から変わらず、自然が独自の営みを続けていることを表現しているのではないだろうか。そして、ちっぽけで儚い人間と比べ、悠然とした自然の美しさに対する感嘆の思いも、この俳句に込めていると考えられる。

(599字)

 

 

2014年 高知県立大 文化学科

 

設問3

超過密状態の日本の都会では、街で次々とすれ違う無数の人々にいちいち会釈をしていられないし、一時的に空間を共有するすべての人に笑顔を作って挨拶するのも煩わしいため、わざわざ無関心を演ずる必要もないから。

(100字)

 

設問4

 表情やしぐさは、言葉を発するのと同時に現れるものであり、自分が声に出して話している時の感情や本当の思いを相手に伝えるものである。実際、自分が発している話の内容より、顔の表情や態度の方が本当の思いを表している場合があるのだ。私は友達と会話をしている時に、このことを感じたことがある。

 以前、友達と買い物に行った時のことだ。ある商品を見て、友達が「これかわいいね」と言った返事に、「本当、かわいいね」と答えた。すると、友達に「本当はかわいいと思ってないでしょう」と指摘されてしまった。口だけで言っても、表情や態度から、本当の思いが相手に伝わってしまうのだ。友達から指摘され、戸惑うことがよくあるので、注意しようとは思っているのだが、自然とそういった態度は現れてしまうのである。

 また、興奮している時にも、表情や態度から、喜怒哀楽の感情が溢れ出てしまうことがある。文化祭で劇を行い、他のクラスに勝った時の喜びは、言葉にできないもので、その様子を見た写真屋さんからは、「本当に嬉しかったという思いが全身から伝わってきたよ」と言われた。

 このように、表情やしぐさ、態度は、話をしている人の本当の思いを、否が応でも相手に伝えてしまうものなのである。こうした言葉以外の手段はコミュニケーションにとっては不可欠なものであり、正確に読み取らなければ、適切な意思疎通はできないと考えられる。

(582字)