周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

とある解答例

2008年 愛媛大 看護

 

設問1

自己中心的・独善的な態度を捨て、相手の言っていることを受け入れようとすること。       (39字)

 

設問2

人の言っていることに同意するのではなく、それと格闘して否定してやろうと思うこと。      (40字)

 

設問3

勉強することには、人の言うことに耳を傾け、我慢して聞くという心構えが求められるので、自己中心的・独善的な態度を一度捨てなければならず、まずは相手の言っていることを受け入れようとする素直さが育つから。

(99字)

 

設問4

 私は現代文という科目が苦手で、その勉強を避けてきた。しかし、このままでは受験の弊害になると思い、我慢して文章をじっくり読むように心掛けた。最初は頭に入ってこなかった内容も、時間をかけるうちに落ち着いて読み込むことができるようになり、文章を理解できるようになった。それと同時に、その内容の面白さにも気づくことができた。かつての私は、苦手意識や難しさによって、文章を素直に受け入れようとする心構えを失っていたのだ。筆者の主張するように、私も勉強は素直さと心を制御する力を育んでくれるものだと考える。

(246字)

 

 

2009年 愛媛大 看護

 

設問1

見ている人の表情と見ている対象とを交互に見返して、同じものを見ていることを確かめるようなこと。

 (47字)

 

設問2

「人それぞれ」の意味をはき違え、「それぞれ」の部分が強調され、自分に都合のよい歪んだ解釈をするから。

 (50字)

 

設問3

他者や世の中の出来事を自分のこととして引き受け、真剣に自分と対話すること。         (37字)

 

設問4

 筆者の主張するように、私も他者や世の中の出来事を自分のこととして引き受け、真剣に向き合いながら生き続けていくことが大切だと考える。私の目指す看護師の場合、患者の苦しい状況や辛い気持ちを理解できなければならない。しかし、感情移入するだけでは、苦痛や不安を共感するにとどまってしまう。患者の立場に身を置きつつも、自己意識を保った状態で患者と接しなければ、患者に最も適した看護を提供することはできないだろう。看護師にとっても、エンパシー型コミュニケーションで生き続けることが必要である。    (240字)

 

 

 

2010年 愛媛大 看護

 

設問1

サービス業で必要とされるコミュニケーションには形がなく、ケースバイケースであるために過酷で、またマニュアル化しにくいため個々の努力や工夫が必要で、肉体も神経もフルに使うことになり、心身ともに疲れてしまうから。                (104字)

 

設問2

授業を行って勉強を教えるという特定の技能だけではなく、学生の進路や人生の相談に乗るといったコミュニケーション能力も必要で、どこかで線を引かなければ、限りなく他人の人生を背負うことになってしまうところ。

(100字)

 

設問3

サービス業は形のないものを扱っているだけに、良いのか悪いのか、またどの程度良いのか悪いのかを判断しにくいため、正当に評価されなければ無力感に苛まれてしまう。そして、制限もないためどこまで頑張ればよいのかがわからず、自分にノルマを課しすぎて重圧となり、人によっては耐えきれなくなってしまうこともあるから。

(151字)

 

設問4

人間関係による偶発性に左右されるサービス業とは異なり、仕事の内容や方法が固定化している労働。

(46字)

 

 

2011年 愛媛大 看護

 

設問1

国や他人の世話にならないことを目指し、勤勉に働いて、自分で自分の運命を切り開くといった、経済的な自立をイメージする考え方。           (61字)

 

設問2

自助の、社会的なサービスから離脱する経済的な自立イメージから、福祉サービスやケアを利用することが一つの自助とするイメージへの変更。      (65字)

 

設問3

当事者不在

 

設問4

自分を助けようとしている自分の姿を当事者自身に意識させ、より効果的な新しい自分の助け方を一緒に見出そうとする連帯を生み出すため。       (64字)

 

設問5

 私は、小学生に勉強を教えるというボランティアに参加したことがある。その時に教わったのは、いきなり答えを教えるのではなく、適切なヒントやアドバイスを与えるということだった。それは、小学生が自ら考えるという作業をしなくなることを避けるためだった。子どもたちにとっては、ヒントやアドバイスを聞きながらも、自力で答えを導き出すことが大切で、その経験が彼らの自助力を高め、自信にもつながるのだ。

 この経験から、「当事者自身が“自分を助けること”を助ける」という筆者の考えは、正しいと評価できる。

(241字)

 

 

 2012年 愛媛大・医学部・看護学科・前期

 

設問1

現在流れている会話の流れをひたすらつないでいるだけの会話                  (28字)

 

設問2

相手と話している文脈は維持しながらも、自分自身の経験知の深みに降りていくことでもたらされる深い対話。

(50字)

 

設問3

自分自身の経験全体に常に向き合い、相手から来る言葉の刺激をその経験全体に一度及ぼし、そこから出てくる感触を言葉にしてみる。          (61字)

 

設問4

(解答例1)

 高いレベルの対話力とは、相手に自身の経験を振り返らせ、微妙な心の感触を言葉にする作業を促すだけでなく、自らがそれに付き添い、相手の経験世界にまで思いを馳せることである、と筆者は説明している。現代の若者の一人である私のコミュニケーションを顧みた場合、正直なところ、そのような対話はできていない。

 友人との会話を思い出してみると、よく「ヤバイ」という言葉を使っていることに気づく。これは、楽しいこと、あるいは嫌なことに遭遇したときにも使う。いわば両義性を備えた言葉として、若者の間で普及している。

 しかし、どのように「ヤバイ」のかと言うと、それ以上の内容は伝わらない。にもかかわらず、この言葉を頻繁に使い、会話をしているということは、言葉にならない自分の気持ちを言葉にするつもりも、また相手の心に思いを馳せるつもりもないことが見えてくる。自分勝手に話し続けるだけでは、深い会話にはならないだろう。

(394字)

(解答例2)

 高いレベルの対話力とは、相手に自身の経験を振り返らせ、微妙な心の感触を言葉にする作業を促すだけでなく、自らがそれに付き添い、相手の経験世界にまで思いを馳せることである、と筆者は説明している。現代の若者の一人である私のコミュニケーションを顧みた場合、正直なところ、そのような対話はできていない。

 友人との会話を思い出してみると、勉強や部活、趣味を話題にしたものが多い。そのテーマも次から次へと変転し、内容が深まることはない。さらに言えば、話したい内容を自分勝手に話しているだけで、相手の応答に対して真剣に耳を傾けることも少ない。相手の話を聞くときにも、相手の話を聞きながら、自分が次に話す内容を考えている。相手の考えや気持ちに思いを馳せ、深く共感するようなことは、ほぼないと言ってよい。

 自分や相手の経験に踏み込み、思いを馳せることができなければ、優れた対話にはならないだろう。

(386字)

 

 

2013年 愛媛大 看護

 

設問1

コンフリクト、つまり複雑な利害対立の構造を炙り出してしまうから              (31字)

 

設問2

問題解決のテンプレート

 

設問3

コミュニケーションにおける当事者双方が、複雑な利害によって対立するような、異なる立場にいるのではなく、円満な人間関係、つまり最低限、調和の関係にあるということ。                 (80字)

 

問4

 私は、部活動で話し合いをしている時に、実現不可能な正論を耳にした。その時は、新入生歓迎会でどのような催し物をするかについて、部員で話し合っていた。あある部員が新入生を楽しませる優れた提案をしたのだが、それは費用がかかりすぎ、時間的に間に合わない意見だった。そうした否定的な意見が出ると、その部員は批判を気にせず、新たに費用と時間のかかる提案をしたのだ。

 この部員の意見は、新入生を楽しませるという観点からだけで言えば正論だろう。しかし、それを実行するには費用と時間という別の問題が浮上してくる。制限のあるなかで、何ができるのかという、他の部員の考えを理解せず、同じ立場に立てていなかったことが、この部員の提案を実現不可能な正論にしてしまったのだと考える。

 この体験から、話し合いの当事者双方の利害関係を一致させ、互いの立場や考えを理解できれば、実現不可能な正論を、本当の意味での正論にできると考えられる。

(400字)

 

 

 2014年 愛媛大 看護

 

設問1

① 損・得に関すること、つまり利害である

② それが正しいか正しくないかという基準である

③ 好き・嫌いによる選択である

 

設問2

私は学校内の体育祭で出場する種目を決めるとき、綱引きなどの集団競技よりも、個人の活躍が目立つリレーなどを選び、他者からの称賛を得て、名誉心を満たそうとした。(78字)

 

設問3

やりたいことだけれどもやるのは正しくないからやらないこともある。(32字)

 

設問4

 私の幼いころには、欲しいおもちゃがあったのに、お金を持っていなかったため、買うことができなかったという状況が幾度もあった。このようなとき、私には2つの選択肢があった。1つ目は、今は我慢して誕生日に買ってもらうという選択肢で、2つ目は家族の貯金箱からお金を盗んで買うという選択肢だ。しかし、私には2つ目の選択肢を実行することはできなかった。このとき私は、親に叱られることを恐れ、実行したいけれどしないという、正か不正かの判断をしたのだ。それと同時に、私は損・得というもう1つの判断も下していた。叱られる可能性がありながら、おもちゃを手に入れて得するよりも、我慢して買わない方が、お金を盗む罪悪感もなく、叱られる苦痛を被ることもない。このように私は、物質的な意味での損よりも、精神的な意味での得を選んだのである。損・得や正・不正の判断は、まず社会の基盤である家庭のなかで身につけていくものと考えられる。

(399字)

 

 

2015年 愛媛大 看護

 

設問1(16㎝=25〜30字程度か)

社会共通の価値観の崩壊によって、自分の行為が周囲から認められるかどうか確信が持てなくなり、絶えず場の空気を読み、感情を抑えて過剰な配慮をする状態。

(73字)

 

設問2

社会共通の価値観が不明確であること。  (18字)

 

設問3

拘束からの解放と自己決定による納得感。  (19字)

 

設問4

 他者のための行為、つまり自己の自由が制限された行為を、自分の自由意志で選択し、納得感を得る。これが筆者の提案する方法であり、私もこの考えに賛同する。

 以前、文化祭の準備をしていたときのことだ。本番前日に、クラスのメンバーで催し物のお化け屋敷の設営をしていたのだが、用事があるということで、一人ずつ帰っていった。私も塾があったので帰りたかったのだが、その気持ちを押し殺して最後まで作業をやり通した。翌日、帰ったクラスメイトたちは、できあがったお化け屋敷を見て、残って作業を仕上げた私たちに、謝罪と感謝の言葉をくれた。私はそのことがとても嬉しかった。

 もしこの時、こうした承認の言葉がなかったなら、自己決定による納得感は得られただろうか。私は、他者の承認を得たからこそ、自己犠牲という決定に納得感が生まれたと考える。この場合、自由と承認は対立関係にあるのではなく、相互補完関係にあると言えよう。

(393字)

 

 

2016年 愛媛大 看護

 

設問1

出会いを生かして自分の新しい可能性を切り拓いていく人と、出会いを生かせずにその場限りのものにする人との違い。                  (54字)

 

設問2

互いの価値観や考え方の相違をつきつめていくと、人格的な対立を引き起こしかねないので、会話ではその相違を議論せず、円滑な人間関係を作ったり保ったりすることを優先するから。             (84字)

 

設問3

会話においては、それぞれの異なった考え方がつきあわされて相互に深まることはなく、各自が異なった考え方を持ったままで人間関係を続けていくのです。

 

設問4(60字程度か)

対話をするときは、腰を落ち着かせ、相手の顔や目を正面から見て、意識をしっかりと相手に向けて応対することが必要である。              (58字)

 

設問5

自分と他者が相対し、双方が理解や思考を深める点。

(24字)

 

設問6

 筆者の主張するように、私も、自分の人生観を変え、人格的な成長をもたらすのは対話だと考えている。成長は変化である。したがって、人間関係の維持にのみ力点を置こうとする会話だと、何の変化も成長も起きないのは当然のことと言えよう。自分と他者の見解の対立が起きないような会話など、変化を起こすどころか、そもそも記憶にさえ残らないのではないだろうか。

 双方にとって実りある対話を実現するためには、筆者の指摘するように、きちんと向き合い、意識を相手に向けて応対する真摯な姿勢が必要だ。しかし、異なる見解を対立させるだけでは、対話は平行線を辿るだけである。議論を重ねるなかで、まず互いの考えを聞き入れなければならない。そして、自己の考えを相対化することで、双方が自身の未熟さや誤りなど、自分だけでは気づけなかったことに気づけるようになると考えられる。私は、こうした傾聴力と相対化が、対話には必要だと考える。

(394字)