周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

小田文書21

   二一 守藝善樟連署首座官銭請取状

 納 首座官銭之事

  合壹貫文者

         (所)

 右爲恵厳首座分◻︎請取件、

     (1570)

     元亀元午庚年九月十七日      侍眞守藝(花押)

                       守塔善樟(花押)

          栗棘庵

 

 「書き下し文」

 納む 首座官銭の事、

  合わせて壹貫文てへり、

 右恵厳首座分として請け取る所件のごとし、

 

 「解釈」

 納める、首座官銭のこと。

  都合一貫文。

 右の銭は、恵厳の首座分として受け取りました。

 

 「注釈」

「首座」─禅寺で修行僧中、主席にあるものをいう。修行僧中の第一座で、長老(住

     持)の次位。僧堂内のいっさいのことをつかさどる(『日本国語大辞

     典』)。

「官銭」─禅宗官寺の住持の資格を得ようとするものが幕府に納入する銭貨。公文官銭

     (『日本国語大辞典』)。

「栗棘庵」─りっきょくあん。東福寺の塔頭。永仁二年(一二九四)東福寺四世仏性禅

      師白雲恵暁の開基で、洛北(のちに白雲村と称す)にあり栗棘庵と号した

      が、徳治二年(一三〇七)には伽藍を建て聖寿寺と号した。文明二年(一

      四七〇)後花園上皇が死去した際、泉涌寺の再建がなっていなかったの

      で、一時本寺に霊柩を奉安した。その後兵火にかかり再建の際に東福寺

      に移し、旧号を用いて塔頭とした。本尊千手観世音菩薩(『京都市の地

      名』)。

 

*恵厳という僧侶を首座にするために支払った銭を、守藝・善樟が受け取った領収書と

 考えられます。充所の栗棘庵が支払ったということになりそうです。請取状を発給し

 た二名の僧侶は、本寺である東福寺の役僧なのでしょう。ただし、この請取状がなぜ

 小田文書に伝来しているのか、まったく理由がわかりません。ひょっとすると、恵厳

 は小田氏の先祖である楢原氏の一族で、栗棘庵の僧侶だったのかもしれません。