周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

とある解答例

 2016年 島根大・前期

 

問1

疑似科学は、科学的に厳密な証明がないにもかかわらず、科学の用語を使用することでいかにも効果があると見せかけるところに問題がある。疑似科学に身を委ねれば、考えるという面倒なことをしなくてよく、ただ信じていれば安心できるから、いったんはまると立ち直るのが難しい。人間は過去に何らかの悔恨を持ち、現在の閉塞感を重く感じ、未来が決定できないため、怪しげでも癒しの気分で疑似科学に近づきたくなってしまうのだ。

(199字)

問2

矛盾と向き合うことによって非合理性を発見し、それに対して疑問を持ったり質問したりするのを楽しむ技術。

(50字)

問3

図1・2ともに、回答項目の前半3つは、教えられた正しいとされる情報を習得し、うまく使いこなすことを重視した勉強の方法や習慣・態度であり、「よくしている」「どちらかといえばしている」と答えた割合は50%を超えている。一方、図1・2ともに、後半3つの回答項目は教えられた情報そのものの是非や仕組みを検証したり、異なる視角からそれらを捉え直してみたり、異なる分野との関係性を思考したりするなど、応用的に情報を利用しようとするのもので、「していない」「どちらかといえばしていない」と答えた割合が50%を超えている。このように、現代の学習では、正しいとされる合理性を身につけ、うまく利用することが重視されているが、その合理性自体を疑ったり、その仕組みを自ら考えたりするといった、物事の本質を追究することに関心が払われていないことがわかる。非合理性や矛盾について考えることが習慣化されていないのである。

(395字)

 

 

2015年 島根大・法文学部・後期 総合問題

 

第1問 問2

前者は、身の回りのごく即物的な生活のディテールを伝統として正当化し、それをまるごと政治に結びつけるが、後者は、それに特有の世界観を学び、自分で納得し受け入れなければ、政治とは結びつけにくいということ。

(100字)

 

問3

「市民の政府」は、専制権力から排除された市民の政治参加が制度的に保障された政府であるが、「民族の国家」は、言語・習俗による文化的一体感を本質とした国家である。

 

 

 

2015年 鳥取大・医学部・後期

 

 私も、ルソーと同じように、「最も多く生きた人とは、最も長生きした人ではなく、生を最も多く感じた人である」と考える。

 医療者というものは、患者の病気を治療し、通常の生活へ戻すためにサポートするのが仕事である。したがって、患者に健康で長く生きてもらうことを何よりも願っているはずだ。だが、医療にも限界はある。現代の技術では治療できない病気は多く、自身の余命を知らされて延命治療をひたすら続けられる患者や、亡くならないまでも、一生その病気と付き合っていかなければならない患者もいるだろう。健康的に日常生活を送っている人に比べると、生きている実感を得にくいことは想像できる。余命いくばくもない患者や、不治の病とともに生き続けなければならない患者に対し、生きる意味や目的、生きている実感を感じてもらうことは容易ではない。だが、それでも私は、そうした生の実感を感じてもらえるように、医療の現場でサポートしていきたい。

 患者はそれぞれ唯一無二の人生を生きている。生きる意味や目的、価値観なども、尽く違うはずだ。だからこそ、私は私の価値観を押し付けるようなことをするべきではないと考えている。重篤な症状の患者に、頑張ってくださいと応援するのも、生きていればいいことがあると励ますのも、場合によって患者を苦しめることになるかもしれない。まずは、患者がどのような状況にあるのかを察知し、何を考えているのかをよく聞く必要があるのではなかろうか。死や不治の病を前に絶望している患者の心は、とかく孤立しがちだ。他人の意見に耳を傾ける余裕などない。だからこそ、私はその孤立した心の声に耳を傾け、その心を共有すべきだと考える。共感はともに生きているからこそできる行為である。劇的な変化は望めないかもしれないが、一人ではないことを実感してもらい、苦しみを共有することが、生きていること実感することにつながるのではなかろうか。