周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

酒の粗相で絶交…

  嘉吉元年(1441)七月二十六日条 (『建内記』3─295)

 

 廿六日、庚申、雨下、

  (中略)

 蔵人左少弁入来、昨日爲教秀代参番了、夜前山科中将有経花山院番代参勤之処、彼朝

 臣以外沈酔参之、反吐入泉殿御舟、言語道断次第也、於龍頭者不汚歟、進御所云々、

 於御舟者必可被新造哉云々、狼藉之至不便々々、後聞、依此事彼一家人々於有経朝臣

 者絶交之由成任奏聞云々、剰事歟、

 

 「書き下し文」

 蔵人左少弁入り来る、昨日教秀の代として番に参り了んぬ、夜前に山科中将有経花山院の番の代わりに(番代に)参勤するの処、彼の朝臣以ての外沈酔し之に参る、反吐を泉殿の御舟に入る、言語道断の次第なり、龍頭に於いては汚れざるか。御所に進むと云々、御舟に於いては必ず新造せらるべきかと云々、狼藉の至り不便不便、後に聞く、此の事に依り、彼の一家の人々有経朝臣に於いては絶交の由成任奏聞すと云々、剰りの事か、

 

 「解釈」

 坊城俊秀がやって来た。昨日勧修寺教秀の代わりとして小番のために参内してきた。昨晩に山科有経が花山院持忠の代わりとして小番のために参勤したところ、この有経はひどく泥酔して参内していた。反吐を泉殿のお舟の中に吐いた。とんでもない事態である。龍頭については汚れてないのだろうか。有経はそのまま御所に進み入ったそうだ。お舟についてはきっと新造されるのだろう、という話も出たそうだ。不埒の極みであり、たいそう不都合なことだ。後で聞いた。この一件によって、山科家の一門は有経と絶交することを、山科成任が後花園天皇に奏聞したそうだ。あまりにもひどいことだなあ。

 

 「注釈」

「蔵人左少弁」─坊城俊秀。

 

「教秀」─勧修寺教秀。参議。後に武家伝奏を務める。

 

「番」

 ─内裏小番(禁裏小番)。内裏の警衛・宿直に当たる殿上人の仕事。輪番で勤めていた(家永遵嗣「室町幕府と「武家伝奏」・禁裏小番」『近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集』五、二〇一三・三、参照、https://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/3491/1/kinsei_5_43_96.pdf)。

 

「花山院」─花山院持忠。右大将・内大臣

 

「泉殿」─泉の出る建物か、泉に面した建物。

 

「龍頭」─竜頭鷁首。龍の頭のようになっている船首部分。

 

「成任」

 ─山科成任。のちの山科顕言。ゲロを吐いた有経は山科家の庶流で、成任の方が嫡流

 

【コメント】

 お酒の失敗というのは、今も昔もよく聞く話です。自分自身にも身に覚えが…。ただ、泥酔した状態で出勤する(花山院の代わりですが)感覚はさすがによくわかりません。

 さて、今回の主人公山科有経は、宮中で大失態をやらかしてしまいます。あまりにも飲み過ぎて気持ち悪かったのでしょう、土御門東洞院殿の泉殿に付けられていた舟に、ゲロを吐いてしまったのです。

 ゲロを浴びてしまった舟は、その後新造されたのかどうかはわかりませんが、この事件は単なる粗相では終わりませんでした。なんと、有経は山科一族から総スカンをくらうことになったのです。当時の「絶交」が具体的にどのようなものかはわかりませんが、何か政治的・経済的に問題が起こっても、誰も助けてくれなかったのではないでしょうか。その他にも、宗教的な行事からも排除されたのかもしれません。記主の時房は、酒の粗相のせいで絶好まですることはさすがにやりすぎだ(剰事歟)、と考えていたようです。

 公家の処罰の一つに、身分・特権など剥奪される「放氏」というものがあるそうですが、これに比べれば、まだ軽い制裁ということになるのでしょう。ただし「絶交」するには、天皇への奏聞を経て、勅許されなければならかったようです。そうすると、当時の親族関係における絶交は、現代のように私的問題にとどまるものではなく、非常に政治的・制度的な問題だったことになります。お酒の失敗には注意したいものです。

 

 

*2020.1.3追記

 嘔吐についておもしろい文章を見つけたので、掲載しておきます。

 

嘔吐の象徴性

 足利家の血筋なのか、歴代将軍はめっぽう酒に強かったが、「御酒御下戸」(ごしゅおんげこ)といわれた後花園天皇をはじめ、皇室・公家の人びとは概して酒に弱く、そのような人びとにはせっかくの酒宴も苦痛以外の何物でもなかったかもしれぬ。義持時代に伝奏をつとめた広橋兼宣の日記からは、連日の酒宴についてゆけずに苦悩する兼宣の痛ましい姿が伝わってくる。また貞成の『看聞日記』には「当座会」(とうざのえ)という言葉が頻出するが、酒で嘔吐することを当時「当座会」といったらしい。三〇年十二月に義教が貞成の伏見御所を訪問したとき、勧修寺経成(かじゅうじつねしげ)が酒宴で「当座会」に及び、貞成が室礼のために広橋親光から借用していた屏風に嘔吐してしまったが、経成がとっさに「広橋に懸けて濯ぐべし」と言ったので、一座は大いに盛り上がったという(「広橋」は広い橋に広橋親光を掛けたもの、「濯ぐ」には洗うの意味のほかに、酒宴で嘔吐した者が罰ゲームとして後日酒宴を用意する「当座すすぎ」が掛けてある。

 私たち現代人からみるといささか奇異なことだが、この事例からも明瞭にうかがえるように、当時酒宴で嘔吐することは少しも憚られなかったばかりか、むしろ最高の座興とさえ考えられていたのである。義教の時代、酒宴でよく嘔吐することで有名だったのが、関白二条持基である。彼は吐きながら飲む特技の持ち主であり、三五年正月に貞成が上御所を訪問した際にも、「関白盃を受くるの時、当座会。散々吐かれ、永豊朝臣これを拭いて掃除す。主人興に入る」と例の特技で大いに喜ばせている。

 (桜井英治「酔狂の歴史」『日本の歴史 第12巻 室町人の精神』講談社、2001年、240・241頁)

 

 この研究によると、宴会での嘔吐は座興として許容されていたようです。私の紹介した山科有経は、勤務中に嘔吐したため絶交という憂き目を見たのでしょう。嘔吐の評価ひとつとっても、TPOによって大きく異なるようです。