永享十二年(1440)三月十二日条 (『建内記』3─54)
十二日、庚寅、天晴、夜雨、
(中略)
傳聞、六条宰相中将〈有定卿〉女、室町殿若君〈朝日養君也〉上﨟也、而於朝日宿所
与遁世者〈十七歳云々〉密通露顕之間、於上﨟者被流刑、至遁世者者被切首了、近日
事也云々、父卿心中察存者也、
*割書は〈 〉で記載しました。
「書き下し文」
十二日、庚寅、天晴る、夜雨、
(中略)
伝へ聞く、六条宰相中将〈有定卿〉女、室町殿若君〈朝日養君なり〉上﨟なり、而る
に朝日宿所に於いて遁世者〈十七歳と云々〉と密通露顕の間、上﨟に於いては流刑せ
られ、遁世者に至りては首を切られ了んぬ、近日の事なりと云々、父卿の心中察し存
ずる者なり、
「解釈」
十二日、庚寅。天気は晴れ、夜に雨が降った。
(中略)
伝え聞いた。六条宰相中将有定卿の娘は室町殿若君〈朝日の養君である〉の上﨟であった。ところが、朝日の邸宅で僧侶〈十七歳という〉と密通したことが露見したので、上﨟は流罪にされ、僧侶は首を切られた。最近のことであるそうだ。父有定卿のお気持ちを察し申し上げるものである。
「注釈」
「若君」
─後の堀越公方足利政知か。父は六代将軍足利義教、母は幕府奉公衆斎藤朝日氏の妹(家永遵嗣「足利義視と文正元年の政変」『学習院大学文学部研究年報』61、2014、http://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/top/publication/res_pdf_61/001.pdf)。
「養君」─養い育てる貴人の子。母の実家朝日氏の邸宅で養育されていたのでしょう。
【コメント】
将軍の若君づきの女房が、若い僧侶と密通…。スキャンダラスな?出来事です。気の毒に、バレた女房は流罪、僧侶は斬首。当時の流罪ですが、最終的には殺害されることが多かったそうです。
さて、結果としてこの二人は流罪・死罪となりましたが、そもそも流罪・死罪を覚悟で密通に至ったのでしょうか。それとも、バレてもまさか流罪・死罪にはならないだろう、軽い刑罰で終わるはずだ、と踏んで密通に及んだのでしょうか。それとも、バレるわけないと高を括り、軽い気持ちで密通したのか。いったい、どのパターンなのでしょう。命がけか、衝動的か、当事者の気持ちも気になりますが、そもそも密通は流罪・死罪に当たる重罪なのでしょうか。時の将軍は、恐怖政治を敷いた足利義教です。密通という罪に対する罰が厳しくなっていたのかもしれません。
ですが、そもそもこの密通事件、何が問題だったのでしょうか。僧侶と密通したからなのか、若君の住まう邸宅で事を致したからか、六条有定の娘が若君の上﨟だったからか、とにかく理由がはっきりしません。中世には「密懐法」という法律があるので、女房が人妻であったならば、この法律に引っかかりそうですが、それもよくわかりません。謎は深まるばかりです。
*208.11.11追記
女房と僧侶が厳罰に処された理由を考えるうえで参考になる研究を見つけたので、部分引用しておきます。
まさに、中世の院・天皇は、密通事件を起こした女房や院侍の生殺与奪権を掌握していた事実は明白である(217頁)。
室町期の天皇が住む禁裏内での女房は、天皇の家父長制的支配権の下にあるものとして天皇の所有物であったから、処刑することも懐妊させることも天皇の自由であったといえよう(220頁)。
言い換えれば、天皇は御所内の女房は、自分の家父長制的支配下においていたのであり、懐妊も女房官職の安堵も自由に行なっていたといえる(222頁)。
上記の研究によると、天皇や上皇に仕える女房たちは彼らの所有物であり、生殺与奪権を掌握されていたことがわかります。私が紹介した史料は将軍家の話ですが、これも同じことなのでしょう。将軍家に仕える女房たちは将軍の所有物であり、処刑することも懐妊させることも将軍の自由であった、と。女房と密通した若い僧侶は、将軍の家父長制的支配権を侵害したために斬首という重罪に処されたと考えられます。