三二 伊豆房良慶重訴状案
○本文書は三号文書ノ案文タルニヨツテ本文ヲ省略ス
三三 佐伯光眞同守眞連署和与状
(切断ニヨリ読メズ)
[ ]
いの田の事
合壹所者
(令ヵ) (徳) (親父)
右件名田者、故親父之時、雖下⬜︎限二永代一沽渡候上、去得政之時⬛︎⬛︎助眞之時令二
譲得一後、以已経二廿余ケ年一了、雖レ然爲二親子一逃已間、重新三郎依レ令レ申相互
以二煩事一令二和与一了、於二彼宗眞名[ ]あいの田一者、以レ全不レ可レ有二違
乱一者也、以二八百文一和与仕者也、限二永代一上者、雖レ有二子孫一、任二去正應三
年之親父沽券文一、和与仕状如レ件、
(1319)
文保参年歳次巳未三月廿五日 佐伯光眞(略押)
佐伯守眞(略押)
沙汰人佐伯包久(略押)
公文佐伯光守(花押)
「書き下し文」
[ ]いの田の事、
合わせて壹所てへり
右件の名田は、故親父の時、永代を限り沽り渡し候ふと雖も、去んぬる徳政之時親父
助眞の時譲り得しむる後、以て已に廿余ケ年を経了んぬ、然りと雖も親子として逃
げ已む間、重ねて新三郎申さしむるに依り、相互に煩ふ事を以て和与せしめ了ん
ぬ、彼の宗眞名[ ]あいの田に於いては、全く以て違乱有るべからざる者なり、
八百文を以て和与仕る者なり、永代を限る上は、子孫有りと雖も、去んぬる正応三
年(一二九〇)の親父沽券文に任せ、和与仕るの状件のごとし、
「解釈」
右の名田は、亡くなった親父のときに、永久に新三郎(家)に売り渡したのですが、去る永仁の徳政令のときに、親父の助眞が戻してもらい、すでに二十年以上経過した。しかし、我々親子がここから逃亡しているあいだに、新三郎が重ねて訴え申し上げてきたことにより、互いに煩わしいことになったので、和与しました。この宗眞名内の[ ]あいの田においては、けっして違乱があってはならないのである。私は八百文を受け取って和与し申し上げるものである。永久に和与するうえは、たとえ子孫がいたとしても、去る正応三年の親父の売券のとおり、和与し申し上げます。
「注釈」
「去徳政之時」─永仁五年(一二九七)の徳政令。
「佐伯氏」─厳島社の社家一族だと思われます。おそらく助眞─光眞─守眞が直系の家
族で、宗眞名、あるいはそれを含む郷の役人が包久と光守なのでしょう。
「新三郎」─未詳。
「宗眞名」─未詳。
「和与状」─訴訟の当事者(訴人と論人)が話し合いで解決に至ることを和与といい、
その契状が和与状である(『古文書古記録語辞典』)。
*これは、佐伯光眞と新三郎の間で相論になった土地を、光眞が新三郎に和与し、沙汰
人と公文がその証人として連署した文書と考えられます。すでに亡くなっている助眞
は、正応三年(一二九〇)に新三郎(家)にこの土地を売っているのですが、徳政令
を根拠に戻してもらったようです。ところが、何かの事情でこの地を離れていたとこ
ろに、新三郎が土地を戻してほしいと訴えてきたのではないでしょうか。結局、光
眞・守眞親子は、新三郎から八百文を受け取ることで、係争地を和与しました。