四〇 穂田元清書状 ○東大影冩本ニヨル
(毛利元就)
態令二啓上一候、爲二洞春様仁御意一一寺建立仕度覚悟候、然間箕平本多田之内満願
寺領田壹町小分錢四貫八百文目致二寄進一候、内々可レ被レ成二御心得一候、何茂
連々可レ得二御意一候、恐惶謹言、
二月廿日 元清(花押)
洞雲寺衣鉢閣下
「書き下し文」
態と啓上せしめ候ふ、洞春様に御意として一寺を建立したき覚悟に候ふ、然る間箕平
本多田のうちの満願寺領田壹町小の分銭四貫八百文目を寄進致し候ふ、内々に御心得
を成さるべく候ふ、何れも連々に御意を得べく候ふ、恐惶謹言、
「解釈」
わざわざ申し上げます。亡き毛利元就様のために輝元様のお考えとして、一つのお寺を建立するつもりです。だから「箕平本多田」のうちにある満願寺領の田地一町小分の年貢銭四貫八百文を寄進致します。内々にご承知になってください。何れも、たえずあなた様のお考えを承るつもりでおります。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「箕平本多田」─未詳。読み方も意味もわかりません。地名でしょうか。
「満願寺」─現在の吉田町吉田。郡山城三の丸跡の下方、難波谷の谷頭右方に広大な寺
域を残す。由緒は不明であるが、毛利氏郡山築城の当初頃からあったとも
いわれ、大永三年(一五二三)毛利元就の本家相続が決まり、郡山入城に
際してその日時を満願寺の法印栄秀が卜している(『広島県の地名』)。
「衣鉢閣下」─未詳。