周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

弁海神社文書1

解題

 当社の創立年代は不詳であるが、男山(石清水)より勧請した八幡をまつるという。周辺が小字弁海(豊田郡本郷町)であり、この称がある。弁海は中世の弁海名に由来する地名であろう。今川了俊の『道行ぶり』にこの辺のことを記し、男山八幡宮とみえるのは当社をいっているのであろう。

 正和以降の文書多数を有していたが、現在実物はわずか二通を伝えるのみとなっている。

 

 

    一 和気掃部入道譲状

 

 (端裏書)

 「ゆつり状             彦四郎」

 (安芸豊田郡)

  沼田庄梨子羽郷〈南方〉弁海名内彦四郎分

    合

  ゆつりわたす田畠事

 一屋敷一所上□□

 一一所 神田ひかしの方 町三

 一一所 柳の坪田 一反

 一一所 まきの下の田 一反半

     (金堂)

 一一所 こんたうかさこの田 半

 一一所 藤九郎のもちの分 一反六十歩

 一一所 井上の畠

 一一所 林 こんたうかさこ ふろのおかまて

     (1392)

     明徳三年〈癸酉〉三月十一日

                   和気掃部入道譲状(花押)

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

 「注釈」

「弁海名」

 ─梨子羽郷内の名。弁海名内年貢注文(東禅寺文書)に船木村・尾原村の名が見えるが、いずれも南方の地にある。楽音寺から南へ約一キロ、尾原川の支流三次川中流域の谷は現在小船木と呼ばれ、さらに北西に山を越えると尾原である。弁海名はこの一帯に広がり、小船木には弁海神社が鎮座し、境内地北側に弁海の小字が残る。弁海神社は、今川了俊の「道ゆきぶり」に「此南によろづの神々いはひ奉る中に、おとこ山もいますと申」と記されている。

 正和三年(1314)正月二十日の梨子羽郷預所下文写(稲葉桂氏所蔵文書)に、源信継を弁海名名主職に任じたとあり、預所東禅寺文書により橘氏であることが知られ、地頭小早川氏に対抗する領主側勢力が沼田庄内に存在していたことがわかる。名主職は信継・信賢・信成・孫鶴丸・見月と、暦応三年(1340)まで相承されており、東禅寺に四天王像を寄進した信成は、建武元年(1334)五月十二日の梨子羽郷預所下文写(稲葉桂氏所蔵文書)により、羽坂(羽迫)門田三十歩百姓職も与えられた。延文五年(1360)十月八日付と思われる賢阿譲状(東禅寺文書)に弁海名内の田畠・林・屋敷などがみえ、明徳四年(1393)三月十一日の和気掃部入道譲状(弁海神社文書)に弁海名彦四郎分が記されている。しかし、年不詳三月四日付小早川陽満書状写(稲葉桂氏所蔵文書)に「弁海名主分之事」とあり、弁海名は室町時代には竹原小早川家の勢力下にあったと思われ、室町期のものと推定されている弁海名名主職知行注文・弁海名私注文・弁海名内不知行在所注文(東禅寺文書)には、弁海神社後背地に竹原小早川家代官屋敷が見える。これらの文書によると弁海名は、田二町五反六十歩、畠六反ほか十五ヶ所、林九ヶ所、屋敷三ヶ所などで構成されていたことが知られる(『広島県の地名』平凡社)。

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