四二 毛利秀元書状
(輝元)
呉々、殿様御判物一通令二拜見一、則返進候、
洞雲寺并末寺等之儀、代々任二證文之旨一、播書記へ可レ有二与逹一之由、得二其
(毛利輝元)(穂田)
意一候、宰相様元清御帰朝之時、御判等申調可二進レ之置一候、聊不レ可レ有二相
違一候、恐々謹言、
(文禄元年)(1592)
十二月十八日 秀元(花押)
「書き下し文」
(追而書)
呉々も、殿様の御判物一通拜見せしめ、則返し進らせ候ふ、
洞雲寺并に末寺等の儀、代々の證文の旨に任せ、播書記へ与奪有るべきの由、其の意
を得候ふ、宰相様・元清御帰朝の時、御判等申し調へ之を進らせ置くべく候ふ、聊か
も相違有るべからず候ふ、恐々謹言、
「解釈」
洞雲寺とその末寺などの件は、代々の証文の内容のとおりに、播書記へ譲与するつもりであるという考えを伺いました。宰相様毛利輝元・穂田元清が朝鮮出兵からご帰朝になった時に、安堵状を調え申し差し上げるはずです。あなた様のお考えに、少しも相違あるはずもありません。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「播書記」─洞雲寺住持、十一世天翁玄播のことか。
*充所は十世の梅菴賢達と考えられます。