嘉吉三年(1443)十一月十三日条 (『図書寮叢刊 看聞日記』7─84頁)
十三日、晴、(中略)抑若狭有社頭伊勢、贄殿竈、去八九月之間連日吠、社人卜
(武田信賢)
之、九月廿二三日之間ニ可有大乱云々、守護ニ注進令祈祷、果而内裏炎上、謀反
人露顕、神之告奇得也、其後十月又竈吠、占之、十月四日五日比、不然者十二
月ニ大乱可有、不思儀云々、地下祈祷之由浄喜申、松永御領内社歟不審、
(時房) (坊城)(中原家久・安倍盛時)
今夜一社奉幣伊勢、被行、上卿万里小路大納言、職事俊秀、外記両人参、
神祇官新内侍向、天下静謐念願無極、陣座早速造畢、陣之儀被行珍重也、(後略)
「書き下し文」
十三日、晴る、(中略)抑も若狭に社頭〈伊勢〉有り、贄殿の竈、去る八、九月の間連日吠ゆ、社人之を卜ふに、九月二十二、三日の間に大乱有るべしと云々、守護に注進し祈祷せしむ、果たして内裏炎上し、謀反人露顕す、神の告げ奇得なり、其の後十月に又竈吠ゆ、之を占ふに、十月四日、五日ごろ、然らずんば十二月に大乱有るべし、不思儀と云々、地下祈祷の由浄喜申す、松永御領内の社か不審、今夜一社奉幣〈伊勢〉を行なはる、上卿万里小路大納言、職事俊秀、外記両人参る、神祇官に新内侍向かひ、天下静謐の念願極まり無し、陣の座早速造り畢んぬ、陣の儀行なはるること珍重なり、(後略)
「解釈」
十三日、晴れ。さて若狭国に伊勢神社がある。その贄殿の竈が、去る八月から九月の間、連日のように吠えた。神官がこれを占ったところ、九月二十二、三日の間に大乱があるはずだという。神官らは守護武田信賢に注進し祈祷した。思ったとおり、内裏が炎上し、謀反人が判明した。神のお告げとは不思議なものである。その後、十月にまた竈が吠えた。これを占ってみると、十月四日、五日ごろ、そうでなければ十二月に大乱があるはずだ。不思議なことであるという。民衆たちが祈祷したと小川浄喜が申し上げた。伏見宮家領松永庄内の神社かはっきりしない。今夜伊勢神社へ奉幣を行なった。上卿の大納言万里小路時房、職事の坊城俊秀、外記の中原家久と安倍盛時が参上した。神祇官へ新内侍が向かい、天下静謐をこのうえなく祈願した。陣の座を早速造り直した。陣の定が行われたことはめでたいことである。
It was sunny on November 13th. Now there is Ise Shrine in Wakasa(Fukui Prefecture). The wood-fires oven in the Niedono (the food storage room) barked almost every day from August to September. A priest fortune-told this incident. The content was that a great turmoil should occur between September 22 and 23. The priests reported to Shugo (the province officer) Takeda Nobukata and prayed for safety. As expected, there was a big fire in the Imperial Palace, and the culprit turned out. God's message is mysterious. Then in October, a wood-fires oven barked again. A priest fortune-told this incident. The content was that great turmoil should occur on October 4, 5, or December. It is mysterious.
(I used Google translation.)
「注釈」
「松永」
─松永保は平安─南北朝期の国衙領。散在性が強いので保域は定めがたいが、およそ現小浜市の中央東部、遠敷川・松永川流域一帯すなわち江戸時代の遠敷・国分・金屋・竜前・東市場・太興寺・平野・四分一・上野・三分一・門前の諸村域に比定される。鎌倉─室町期を通じ皇室を本所とする松永庄もあったが、両者の領域的関係性は明確ではない。
松永保は大治元年(1126)三月日付若狭国恒枝名田坪付帳案(東寺百合文書)に「松永保内恒枝名田」とみえる。この恒枝名田はのち分離して太良保となる(→太良庄)。「吾妻鏡」文治四年(1188)九月三日条に次の源頼朝下文が載る。
下 若狭国松永并宮川保住人
可下早任二先例一令上レ勤二仕国衙課役一事
右件所々、地頭宮内大輔重頼寄二事於所職一、押二妨国事一由、
依二国解一、自レ院所レ被二仰下一也、早付二地頭一事之外、於二国
衙之課役一者、停二止非法之妨一、任二先例一、可レ致二其勤一之状
如レ件、以下、
文治四年九月三日
文永二年(1265)の若狭国惣田数帳写は応輸田として「松永保四十七町七反七十歩 東郷四十二町廿歩川三丁五反百廿歩、不六丁二百六十歩 西郷五丁六反五十歩川二反百廿歩、不二反二百歩 三方郷壱反」をあげ、「除廿三町一反五十歩」の内訳として川成三町七反余・不作六町三反余・棡寺八反・佃二町・地頭給五町・公文給二町一反・散仕給二反などを記す。定田は二十四町六反余。これによれば松永保が東・西・三方の三郷に分布しており、約一対一の割合の定田と除田で構成され、保内には佃や地頭・公文らの給田があった。また同年三月日付の若狭中手西郷内検帳案(東寺百合文書)によれば西郷内の松永保田は、億田里二里三十二坪・三十三坪、同三里四坪、河上里一里二坪、同五里二十五坪、志味里一里八坪・二十四坪、同二里十二坪・十四坪・三十坪、同三里一坪・二坪・七坪・八坪・十一坪・十二坪・三十二坪、同四里八坪に所在した。前記惣田数帳の松永保には「領家東寺」、その末尾に「地頭多伊良太郎入道跡、同小太郎伝領」の朱注が付されている。朱注は鎌倉末期の状況を示すとされるが、松永保の領家職を東寺が保有した点は、他の東寺関係文書には出ない。
「多伊良太郎入道」は、建治二年(1276)十月七日付沙弥れんかう屋敷并田地譲状(早稲田大学所蔵明通寺文書)の「さミれんかう」に「多伊太郎入道」の押紙が貼付されていて、同時期の人物であることがわかる。なお南北朝初期には惟宗隆能が松永保の地頭であった(明通寺文書)。室町時代には幕府御料所で天文五年(1536)には守護被官粟屋元行が代官(「大館常興日記」同三年三月十四日条裏書)、元行没後の同十年には守護武田元光の子信高が入部、松永保・宮川保を支配した。
一方松永庄は、領有関係は不明ながら建長四年(1252)十二月一日付阿闍梨勝賢明通寺院主職譲状(林屋辰三郎氏蔵明通寺文書)にみえ、正安四年(1302)の室町院領目録(八代恒治氏所蔵文書)に「新御領」として「若狭国松永庄季景」とある。下って永享十二年(1440)八月二十八日付伏見殿御領目録(常陸榎戸文書)にも「一、若狭松永庄一円百余貫半済、定直奉行、半済浄喜奉行」と記される。これによれば鎌倉─室町期を通じて皇室を本所としたことは確かであろう。伏見宮家は直仁法親王(花園天皇皇子)から室町院領の一である松永庄を伝領し、「看聞御記」に関連記事が散見する。たとえば嘉吉元年(1441)四月二十六日・二十七日条によれば、松永庄新八幡宮蔵の「彦火々出見尊絵巻二巻」を借り、代理で披露している。また「実隆公記」永正元年(1504)九月二十七日条に「伏見殿御料所若州松永庄事、粟屋左衛門尉御代官職事、依仰申合之」とあって、守護武田氏被官粟屋親栄が代官職を務めている。
なお前出惣田数帳写にみえる棡は保(荘)域内の門前にある明通寺をさす。地頭惟宗氏の外護を受け、松永庄関係文書を多数伝えている(「松永保・松永庄」『福井県の地名』平凡社)。
*今度は竈が吠えだしました。中世とは何でもありの時代だったようです。今回もやっぱり不吉のサイン。竈は火を扱う神聖な場所であり、古くから竈神が祀られてきました。このラップ音は、きっと竈神が発したものだったのでしょう。
なお、「竈が鳴動する」という現象は、京都石清水八幡宮でも頻繁に起きていたようです(『石清水八幡宮史』4、怪異編)。どうやら中世では、それほど珍しい現象でもなかったようです。