八 小早川隆景書状
阿州十川所へ入国為祝儀使僧差渡可然之由、御内儀得其心候、此昇蔵主申付候
旨儀、被仰含可被差遣之候、馬太刀等之事従両人所可申候、将又判紙貳進之候、
書状調可被遣之候、就中小林方之事此節被差上度之条、先度申[ ]合力之事、
打渡候へ之由候之□申付候、猶口上申之条閣筆候、恐々謹言、
(日) (隆景)
□月[ ] □□(花押)
(後闕)
「書き下し文」
阿州十川所へ入国し祝儀のため使僧を差し渡すこと然るべきの由、御内儀其の心を得候ふ、此れ昇蔵主に申し付け候ふ旨儀、仰せ含められ之を差し遣はさるべく候ふ、馬太刀等の事両人の所より申すべく候ふ、将又判紙二つ之を進らせ候ひ、書状を調へ之を遣はさるべく候ふ、なかんづく小林方の事此の節差し上げられたきの条、先度申す[ ]合力の事、打ち渡し候への由候ふの□申し付け候ふ、猶ほ口上申すの条筆を閣き候ふ、恐々謹言、
「解釈」
阿波国十川のところへ入国し、祝儀のために使僧を差し遣わすのがよいという内々のご決定ですが、この件を承りました。この役目は昇蔵主に命じるという取り決めを、当人に言い聞かせなさって、派遣さなるのがよいです。馬や太刀等のことは二人のところから用意するべきです。あるいは、馬と太刀の折紙二枚を進上しまして、書状を調えてお送りになるべきです。なかでも、小林方のことについては、この機会に書状を差し上げたいので、先だって(〜合力を願い、引き渡してくださいという事情がありますので?〜)命じました。これ以上のことは口頭で申し上げるので、ここで筆を止めます。以上、謹んで申し上げます。
*書き下し文・解釈ともに、よくわかりませんでした。
「注釈」
「十川」
─徳島県麻植郡鴨島町山路の仙光寺あたりの地名か。十川山と号し、国一八幡神社に隣接している。現在は日蓮宗寺院であるが、寺籍は天台寺門宗に属する。本尊は日蓮大菩薩。正平年間(1346─70)に善智が再興したとの所伝がある。南北朝時代から江戸時代初期の古文書一九通と般若心経一巻を一括で伝え、これらの史料から当寺が中世以来熊の先達の拠点だったことが明らかになる。嘉吉にねん(1442)二月二七日の十河幸賢願文案(二階堂家文書)には「阿州おゑのそかわひき檀那」などとみえ、十河(十川)先達を称し、板西(現板野町)の「かゝみ殿」などを先導して紀州熊野へ赴いていた。文安五年(1448)一二月二三日の別当覚葉旦那職売券によれば、この頃には現吉野町柿原に拠点をもったとみられる柿原別当(現同町薬師寺か)の弟子に位置づけられ、麻殖庄内に居住していたとみられる檀那を直銭一貫五〇〇文で同別当から譲られている。旦那の分布範囲は所蔵文書からおもに現鴨島町・川島町域を中心としたことがわかるが、活動範囲はかなり広域的だった。永禄一二年(1569)三月二六日の熊野三山御師渡日記によれば、大西城(現池田町)の城主大西覚用も檀那であった。また文亀二年(1502)一二月一三日十川先達憲春が弟子の大輔公に「熊野参詣之檀那」とともに「蓮花寺住持敷(ママ)」を譲渡しているが(憲春置文)、この蓮花寺は現板野町の蓮華寺であろう(以上、寺蔵文書)。
天文二一年(1552)一一月七日の阿波国念行者修験道法度写し(良蔵院文書)には「麻植曾川山」とみえ、当寺の山伏は念行者と称した安房国の有力山伏集団に属しており、山伏間の紛争処理にあたるほか、大峰山や伊勢・紀伊熊野・山城愛宕山・高越山(こうつさん)といった阿波国内外の霊場への引導・代参等を行なっていた。関係寺院は一九ヵ寺あるが、鴨島町に所在が比定されるのは、当寺のほか牛島にあった願成寺がある。天正一七年(1589)一二月一三日の念行寺約状や同日付の年行寺譲状によれば、当寺は年行事(年行寺・念行寺)を勤め、熊野や伊勢などの霊場への初穂料の取扱いをしていた。なお、天正年中には土佐の長宗我部氏によって讃岐を追われた十河存保が、当寺に一時身を寄せていたという。近世には、山城聖護院門跡配下の修験道本山派(天台宗)に属し、仙光寺地福院と称していた。当寺と現石井町浦庄字上浦にあった妙楽寺が同派の阿波国触頭として中核的な位置を占めた(妙楽寺文書)。山路村の八幡宮(現国一八幡神社)ほか近隣村落の神社数社の社僧を勤めていた(阿波国神社改帳)。明治維新の際、近江国園城寺の末寺となるが、ほどなく日蓮宗の僧が当寺を訪れ、改宗に応じた。しかし改宗・所属変更の手続きをしないまま今日に至っている(「仙光寺」『徳島県の地名』)。